今年のお正月は比較的暖かい。元旦(金)午前六時五〇分ころ自宅の屋上から相模湾上に初日の出を拝み、近くの菅原神社へ初詣での途上、朝日に映える富士山を仰いだ。
二日(土)、少し風邪気味であったが、箱根駅伝の四区を麗澤大学の村瀬圭太君が学生連合の一員として走ると聞き、国府津駅前で娘家族と一緒に声援。翌三日(日)も、復路六区の力走を近所の人々と雑談しながら観戦した。
ついで七日(木)午前、柏のモラロジー研究所に初出勤、麗澤大学と合同の教職員新年会に出席。午後一時から、皇居脇の国立公文書館で勉誠出版の岡田社長と大正の『大礼記録』(原本)の絵図・付図を調査し、今秋の出版に向けて相談した。その後四時ころ、明治神宮へ赴き文化殿で特別展「明治天皇の御尊像」を拝観してから正式参拝をさせて頂いた。
つぎに十日(日)は、午前中、日本学協会の理事評議員合同会議に出席し、一般財団法人としての新年度事業計画などにつき協議。午後、梶山孝夫氏による藤田幽谷の「正名論」に関する講義を拝聴し、後期水戸学の神髄に触れることができた。
さらに十三日(水)は、研究所を休み、家内と早朝岐阜に向かった。まず午前中、郷里の野中神社とお墓に詣り、隣近所に挨拶廻り。ついで親友の高松邦夫氏に送ってもらい、大垣北高十一期の同級生有志による中西重忠さん(京都大学名誉教授)の文化勲章受章お祝い会食に参加し、夕方まで歓談した。
中西さんは、昨秋このHpにも書いた通り、昭和三十二年(一九五七)春から大垣北高でクラスメイトとして色々なことを教えてくれたが、少しも偉ぶらない。とくに興文中学出身の若原久嗣さんたちとは、毎年夫婦同伴の海外旅行まで続けている。今回その仲間に加えてもらったが、家内も直ちにうちとけ、実に愉快な集いとなった。
そこで一番感銘を受けたのが、中西さん夫妻から承った勲章親授式の実情と、間近に拝見した勲章・勲記の見事さである。十一月三日、宮殿「松の間」へ入り、天皇陛下の約2メートル前まで進み、陛下みずから勲記を読みあげられ渡そうとされた際、一瞬じっと立っていたが、「そうか僕は〝臣下〟だから、自分が前へ出なければならない」ことに気付いて拝受した、と笑いながら話してくれた。
その勲記には「日本国天皇は中西重忠に文化勲章を授与する 皇居においてみずから名を署し璽をおさせる」とある。また中央に御名「明仁」と親書され「大日本国璽」という御印が押されており、左側に「平成二十七年十一月三日/内閣総理大臣安倍晋三(印)/内閣府賞勲局長幸田徳之(印)/第三八一号」とある(御名の上に菊の御紋章 御印の下に勲章の図柄が刷り込まれている)。
ちなみに、天皇の御印は、明治七年(一八七四)以来、9センチ四方の金印が二種類ある。「大日本国璽」は勲記および条約の批准書、大公使の信任状・辞任状・全権委任状に押され、「天皇御璽」は、詔勅、法律・条約の公布文、認証官の官記などに押される。
また勲記に続いて総理大臣から手渡された勲章は、昭和十二年(一九三七)の創製以来、まことに上品な七宝焼であるが、意外にに小さい(章の花径6.6㎝)。そのデザインは、章に橘の白い花弁と中心の赤い輪に白い三つの曲玉、鈕に橘の常緑の葉と実を配し、章の裏に「勲功旌章」と刻まれている(旌は旗の一種で「しるす、あらわす」の訓がある)。
その図案は、初めに桜も考えられたが、昭和天皇より「桜は昔から武を表す意味によく用ゐられてゐるから、文の方面の勲績を賞旌するには橘を用ゐたらどうか」との思し召しを示されたので、橘に決まったという(千代田通信社長井原頼明氏著『皇室辞典』昭和十三年刊)。
この件について、川村学園大学教授西川誠氏も、角川学芸出版『皇室事典』(平成二十一年刊)で「侍従入江相政の発案を基に、昭和天皇の意向で図案が決定された」こと、その理由として、橘は「常緑樹で香りも高い」こと、また『記紀』に垂仁天皇のため田道間守(たじまもり)が「常世(とこよ)の国」で不老長寿の「非時香果(ときじくかぐこのみ)」=橘を探し求めてきた故事もあることをあげられ、さらに昭和五十一年(一九七六)夏、宮内記者会で「文化というのは生命が長くなければならない、と感じたからです」との御説明があったと記されている。これは『昭和天皇実録』に見えないが、同氏に照会して確かな記録を知らせて頂いた。
ちなみに、京都御所の紫宸殿南庭に、平安初期から今日まで「左近(東)の桜」と「右近(西)の橘」が並び立っている。一気に咲く桜も良いが、常緑の橘も日本文化の象徴として、まことにふさわしいと思われる。
(HPかんせいPLAZA 平成二十八年一月十五日 所功 記)