「地獄絵」と「こんにゃく閻魔」
所 功
源信往生から一千年展
今年は、恵心僧都源信(九四二~一〇一七)の入寂一千年にあたる。それにちなんで、源信の主著『往生要集』(寛和元年九八五成立)を具象化した彫刻や絵画などの展覧会が各地で開かれている。
そのうち、奈良国立博物館の特別展『源信 地獄・極楽の扉』は、七月にモラロジー研究所主催の奈良県教育者研究会へ出講の際に見学して、展示品の迫力に圧倒された。また東京の三井記念美術館と京都の龍谷ミュージアムで開催された「地獄絵のワンダーランド」特別展は、見に行けなかったが、学友から入手した図録の見事な出来映えに感心している。
播隆山一心寺の「地獄絵」
そんな折から、九月のお彼岸(二十三日)に郷里の岐阜県揖斐川町で「広木忠信に学ぶ会」を開いた際、友人と六十数年ぶりに播隆山へ登り、一心寺の「地獄絵」を拝見したが、丁度そこにおられた御住職(故高田好胤薬師寺管長法弟)から懇切な解説を承ることもできた。
この一心寺(浄土宗)は、私の生家から歩いて三十分余で着ける三輪神社の脇から登る播隆山の中腹にある。小学生の頃は、春分と秋分のお彼岸中日に、朝から友達十数人と共に山道を駆け登り、大垣から名古屋まで見渡せる高台で握り飯を食べ、少し心を落ち着けてから、左右を見ないようにして御堂へ入り、まず正面の阿弥陀仏を拝んだ。
すると、奥から老僧が現れ、堂内一杯の子供たちを見渡しながら「みんなよう来たな。さあ左右の絵を見ながらシッカリ聴けよ。」と大声で「十王図」の説明を始める。それが何とも恐ろしい。人は死ぬと、険しい山を越えて川原に出る。その川を渡るには三つの途(方途)がある。罪の無い者は橋を歩いて渡れるが、罪の軽い者は浅瀬を歩き、罪の深い者は川底の深い所を泳いで渡らねばならない(六文銭を払うと船に乗れる)という。
しかも、その先に諸王が待ち受けており、七日ごとに裁判をする。その五七日(三十五日)担当者が閻魔王であり、死者が人間界で犯したあらゆる罪を調べ尽くし「閻魔帳」に記録して先へ送る。すると、やがて判決が下り、善人は「天道」か「人道」へ生まれ替われるが、悪人は「阿修羅道」か「畜生道」か「餓鬼道」か「地獄道」へ墜ちるという。
この六道で一番苦しい地獄の世界を描いた「地獄絵」は、どれを見ても怖い。ましてお坊さんから「嘘をついたら、舌を引き抜かれ血の池に突き落とされるぞ」、「人の物を盗んだら、熱板の上で切り裂かれるぞ」等と説教をされて、「ハイ分かりました。どれも絶対しません」と誓うほかなかった。それが心のブレーキとなり、まともな道を歩んで来られたのだ、と私には思われる。
「蒟蒻閻魔」は地蔵菩薩
こんな機会に、ネットで閻魔さんの情報を探していたところ、面白い話が見つかった。東京の文京区小石川(後楽園の近く)に源覚寺という浄土宗の寺があり、そこに「こんにゃくゑんま」が祀られているとの由。
そこで、昨日(十月十四日)、都内で開かれた大垣北高の関東同窓会へ出る前に、そこを訪ねた。江戸初期に創建された当寺の本尊は、阿弥陀三尊であるが、隣の堂内に祀られる木像の閻魔王座像(約一メートル)は、鎌倉時代の作と伝えられる。
その縁起によれば、宝暦年間(約二百五十年前)眼を患った老婆が、好物の蒟蒻を食べないで毎朝一心に祈り続けたところ、閻魔王から片方の眼力を授かり、何でも見えるようになった。それ以来「身替わり閻魔」とか「蒟蒻閻魔」と呼ばれ、今も眼病治療だけでなく「困厄」克服の祈願に参詣する人が多い。
ちなみに、日本では鎌倉初期から閻魔王の本地仏を地蔵菩薩とする信仰が庶民に広まっている。地蔵さんは地獄に墜ちた母親と衆生を救済しようとした心優しい半仏である。それゆえ、閻魔さんも心を鬼にして、人々を悪の道から救うために、厳しい顔で我々を見張っているのかもしれない。 (平成29年10月15日)