「清水澄博士に学ぶ会」の訂正と新しいお知らせ
(発起人代表)所 功
先般、メールとチラシにより「清水澄博士の墓前祭と講演会シンポジウムのご案内」をさせて頂きましたが、一点重要な訂正があり、関連事項も新たにお知らせ申し上げます。
墓碑は青山霊園の「警視庁墓地」内
まず墓前祭の日時は、九月二十四日(日)午後四時からで変更ありませんが、墓碑の所在を前回間違えており、いわゆる「警視庁墓地」内の墓所番号「第8号一種ロ―1―14側15番」と訂正させて頂きます。
少し詳しく説明しますと、①地下鉄千代田線の乃木坂5番出口(1番出口の乃木神社と反対側)から道路を渡り、②やすらぎ会館・青山葬儀所の前を通って、青山霊園の東2入口の狭い階段を上ります。③そこから少し進んで左折し、やや広い通りを行くと、左側が「警視庁墓地」です。④目印は鳥居の立つ「浜口雄幸」の墓碑前で左折して少し進み、右側にある「江木翼」の墓碑手前で右折すると、そこが「清水澄博士」の墓所です(徒歩約10分)。
当日は誰かコーナーに立ちますが、別掲の地図を参考にお越し願います。もし早めに来られる方は、③を左折せずに「乃木将軍通り」を直進しますと、左側に「乃木家」墓所がございますので、ぜひ御参拝ください。そこから③に戻り④へ着くまで5分ほど要します。
墓所を確認して周辺の墓碑も巡拝
私が清水澄博士に関心をもち感銘をうけたのは、平泉澄先生が日本学協会の雑誌『日本』昭和三十五年十二月号に掲載された追悼顕彰文(のち『山河あり』錦正社刊所収)を拝読し、また昭和天皇の御学友永積寅彦氏から清水博士執筆の御進講教科書『法制』『帝国憲法』を拝借して精読したからです。
そこで、後者の両著を世に広めたいと思い、平成九年(一九九七)秋、博士の五十年祭にちなんで、その複製『法制・帝国憲法』を原書房から出版させて頂きました。それに解説を書くため、金沢市に残る博士の生家や石川県護国神社の顕彰碑を訪ね、また京都市役所に勤めておられた御令孫にも何度か会い、いろいろな逸話を聞いたことがあります。
しかし、東京の墓所へ参拝する機会なく、二十年も経ってしまいましたから、今回「学ぶ会」に先立って、九月五日午後、現地確認に訪れたのです。しかし、かつてある人から教えられ、前回の案内にも書いた番号の所を探しましたが見当たりません。困って、管理事務所で尋ねると、親切に正確な場所を教えて下さり、ようやく探し当てることができました。
事務所で頒けて頂いた案内書によれば、この青山霊園は、もと美濃の郡上藩青山家の下屋敷であったが、明治七年(一八七四)公共墓地として開設された由(現在は東京都公園協会が所管)。その広い園内の通称「警視庁墓地」エリア内に清水博士の墓碑があります。ここは明治十年(一八七八)西南の役で殉職した警察官たちを葬るために同十二年設置されてから、こう呼ばれていますが、エリア内に祀られている方々の過半は警視庁と必ずしも関係あるわけではありません。
たとえば、前述のごとく東三通りに面しているのは浜口雄幸、その左隣が井上準之助。また清水家の右隣は松平恒雄、その左隣が白川義則、その前を左に進むと、左側に伏見博英、右側に入江為守、その隣が犬養毅、その手前(左側)が頭山満の各氏などです。一時間ほどかけて巡拝しながら、多くのことを学びました。
長男清水虎雄氏による見事な墓誌
この清水家墓所には、かなり草が生えていたので、三十分ほど素手で草抜きをさせてもらいました。そして正面に「正二位勲一等法学博士清水澄墓」と大書された墓碑の側面と裏面を見ますと、御長男虎雄氏(憲法学者・東洋大学教授)による墓誌が刻まれていることに気付きました。それは肉眼で判読できないほどの細字ですが、数年前に購入したタブレットで撮影し拡大してみると、次のように記されています(読み易くするため句読点を付し、( )内に私註を加えた。/は改行の印)。
「清水澄ハ、明治元年(一八六八)八月十二日、加州(加賀藩)金沢ニ生レ、昭和二十二年九月二十五日、八/十歳ヲ以テ薨ズ。其生涯ハ公職ヲ以テ終始シ、内務省・学習院・行政裁判所、及枢密/院ヲ通ジ、在職五十有三年ニ及ベリ。而シテ官ハ行政裁判所長官・枢密院顧問官・枢/密院副議長ヲ経テ枢密院議長ニ至リ、帝国芸術院長ヲ兼ネタリ。位ハ正二位ニ/進ミ勲一等旭日大綬章ヲ授ケラル。正ニ人臣ヲ極ムルニ庶幾(ちか)シ。然レドモ其本/領トスル所ハ栄職ニ在ラズシテ、一学者タルニ在リ。其ヲ世ニ重ンジラレタル/所以ハ、手腕力量ニ在ラズシテ、人格学識ニ在リタリ。明治三十一年欧州ニ遊ビ/テ国法学及行政学ヲ専攻シ、留ルコト三年、帰朝スルヤ其代表的著作タル『憲法/篇』ヲ公ニシテ、識者ノ認ムル所トナリ、明治三十八年(一九〇五)法学博士ノ学位ヲ授ケラ/レ、特ニ憲法学ヲ以テ世ニ著ハルルニ至ル。仍爾後本職ノ外、東京帝国大学及各大学ニ講ズルコト多年、又高等文官試験委員ヲ嘱セラレルルコト三十余年、更ニ/大正十五年(一九二六)帝国学士院ニ列セラレタリ。然レドモ、其本懐トシ光栄トシタル/ハ、至尊(天皇)ニ対スル進講ノ任ニシテ、大正四年以降、大正天皇ニ、大正十年以降、今上/天皇にニ常侍進講スルコト十余年ニ及ビ、帝王ノ師トシテ深く自ラ謹メリ。蓋シ/(※以上側面、以下裏面)生涯ハ君国ニ対スル忠誠ノ念ヲ以テ終始シ、抱ク所私心ナカリシハ人ノ認ル所ナリ。新憲法実施ノ年ノ秋月夜(九月二十五日)、伊豆熱海波濤ニ身ヲ投ジ、遺スニ自決/ノ辞ヲ以テス。其趣旨トスル所ハ、日本国及天皇制ノ将来ニツキ憂慮スベキモ/ノアルモ、微力匡救ノ道無キヲ以テ、楚ノ名臣屈原ニ倣ヒテ水死シ、幽界ヨリ我/国ヲ護持シ、天皇制ノ永続ト今上天皇ノ在位トヲ祈願セントイフニ在リ。以/テ志ヲ知ルニ足レリ。其私生活ニ於テハ、身ヲ持スルコト厳ニシテ、自ラ愉楽/ヲ求ムルコト寡カリシガ、明治三十一年、大審院長貴族院議員三好退蔵長女辰/ト結婚シテ三男子ヲ挙ゲ、其生ヲ終フルマデ五十年、伉儷相携フルヲ得タルハ/生涯ノ幸タリ。先人去ツテ既ニ四ヶ月、温顔今尚髣髴トシテ眼前ニ在ルガ如シ。/ 昭和二十三年一月二十五日 嗣子 清水虎雄誌」
その左脇に次の「追悼」歌も刻まれています。
追悼
・大君と御国をおもひ伊豆のうみのふかき心にゆきし人はも 佐々木信綱
・うつしよをみはまかるともかくりきてつかへまつらむゆきしひとはも 同
・ひとのよにかけししみづはおほ庭のみはしよれかくとはにわかなむ 千葉胤明
・秋風に尾花はそよげ石川のせきのしみづにこめる月かも 海南 下村 宏
この墓誌は、父君の事績と志操を最も良く知る「嗣子」ならではの名文といえましょう。
乃木家の墓所と大将の墓碑
その帰途、乃木家の墓所にも参拝しました。周辺の立派な墓と異り、この一区画は、幕末まで日蓮宗だった時期の墓石も、神式とされた明治以降の墓碑も、質素清楚なことに、まず感銘を覚えました。
とりわけ驚きましたのは、乃木神社の神山禰宜に教えて頂いたことですが、表面に「陸軍大将乃木希典之墓」と刻まれた立石の裏面に、次のごとくあります。
明治十年 月 日死 /大正元年九月十三日死
この「明治十年 月 日死」は、乃木大将自身が、生前みずから刻まれたものだそうです。よく知られているとおり、明治十年二月二十二日、熊本城下における激戦で、乃木少佐率いる第十四連隊は、明治天皇から親授された連隊旗を西郷軍に奪われます。その責任を痛感して乃木少佐は自決しようとされましたが、盟友に強く反対され、思い留まられます。しかし、ご本人はここで自死したという心中を、この墓石に刻まれたのだと思われます。
こうして明治天皇に殉じられた乃木大将は、武人の鏡として広く知られています。一方、明治天皇により欽定された帝国憲法を研究し、大正天皇にも昭和天皇にも御進講しながら、それを枢密院で守り切れなかったという自責の一念から自決された清水博士は、文人の鏡だと思われます。その学徳と志操を私共みずから学び直し、それを長く伝えていくために、九月二十四日の「学ぶ会」を発起した次第であります。
当日の進行と所感文のお願い
最後に九月二十四日の進行予定について申し上げます。墓前祭は午後四時に開始しますが、既に五十年祭を過ぎて二十年経っていますから、皆さん平服(ネクタイも黒以外)でお越し願います。前述のとおり、地下鉄千代田線乃木坂駅5番出口から徒歩約10ですが、早めに来られた方は、先に乃木大将御夫妻の墓所へ参拝して頂きたく存じます。
墓前では、発起人の清水潔氏(皇學館大学々長)が祭文の代りに清水澄博士の遺書を朗読し、ついで発起人の永江太郎氏(日本学協会常務理事)が御長男清水虎雄氏(故人)撰の墓誌(前掲)を拝誦した後、参列者全員で拝礼して終了します。
その後、徒歩で乃木会館へ移動します。青山霊園東2入口前の道路を渡り、デニーズ横から近道をするため、案内役(速足組と遅足組)に付いて行けば、10分か15分で着きます。 そこで、もし余力があれば、旧乃木邸の見学や乃木神社への参拝もできます。
神社の隣の乃木会館では、夕方も結婚披露宴など行われておりますが、加藤宮司様と高山権宮司様の格別な御配慮により、三階の棗(なつめ)の間(椅子一〇〇席)を「清水澄博士に学ぶ会」の名で拝借することができました。
「学ぶ会」は午後五時に開始します。久禮旦雄氏(モラロジー研究所研究員)の司会により、所が本会を発起した趣旨説明を行い、ついで川田敬一氏(金沢工業大学教授)が約三〇分、続いて菅谷幸浩氏(亜細亜大学講師)が約三〇分、各々基調報告します。さらに約十分休憩の後、所の司会により参会者から発表者への質疑と応答を行います。その初めに発起人廣野義雄氏(憲法学会理事長)から発言しますが、続いて有志から積極的に御発言を頂けたらと存じます。
ただ、終了時間が午後七時厳守のため、なるべく手短に御一人三分か五分以内とします。もちろん、それでは清水博士への深い熱い思いは述べ尽くせぬでしょうから、できれば所感文をあらかじめA4判一枚か二枚に纏めて、コピー(一応百枚)を御持参願います。そのような所感文と関係資料(当日配布のレジュメや遺書・墓誌のコピーなど)を後日冊子にしたいと考えております。
なお、今回の必要経費は全て私が個人で負担しますから、玉串料も資料代も一切無用です。願うらくは、今や忘れ去られつつある清水澄博士の学徳と志操が再認識され、末永く伝えられる一助となれば幸いです。
(平成二十九年重陽の朝記す)