若狭の古蹟めぐりと京都産大の記念講演
所 功
今月は、中旬に続いて下旬も長目の出張が続いた。幸い体調もよく、有意義な経験をすることができた。その一端を略記しておこう。
二十四日(土)は午前中、靖國神社において、秋の例大祭前後に見事な大輪を出展された菊花奉献会の人々と昇殿参拝の後、靖國会館での式典に臨み、同会の会長として感謝の挨拶と表彰状の授与を務めた。
また午後は、NHKの放送会館で、十二月三日(日)放送予定の番組に使う光格天皇(二百年前に御譲位)関係絵巻などの説明を収録。さらに夜は、共同通信の記者と面談した(その取材記事はごく一部が週末各紙に掲載された由)。
湖底の年縞で判る縄文年代
翌二十五日(日)は、早朝に東京から新幹線で金沢まで行き、駅で友人と会い、北陸線で敦賀へ向かう。その車中で、見知らぬ老婦人に話しかけられ、私の本などを深く読んでおられることに驚いた。
敦賀では、小浜モラロジーのM氏とK氏に迎えられた。車で若桜町へ向かい、夕方まで重要な古蹟をめぐった。その感銘は筆舌に尽くしがたいが、一端を簡単に書き留めておく。
現在の若桜町は、平成に入って上中町と三方町が合併した人口一万六千余の町で、美しい自然に恵まれている。まず、上中にある「若狭町歴史文化館」と三方にある「若狭三方縄文博物館」を、学芸員の永江寿人氏(同学秀雄氏御令息)と青地晴彦氏に案内して貰った。
当町一帯は、縄文遺跡の宝庫であり、特に三方五湖の入江にあった「鳥浜貝塚」は、小中高の歴史教科書にも載るほど著名である。しかも、それが想像以上に重大な意味をもっていることは、この両館をゆっくり見学して実感することができた。
とりわけ後者に展示されている水月湖の「年縞」(ねんこう)は、約七万年の堆積物が年輪状の縞模様(一年分の厚さ約〇,七ミリ)で、世界的に珍しい。これによって、たとえば漆(うるし)の採れる最古の原木は約一万二千六百年前のものであり、また赤い漆塗りの櫛(国の重要文化財)が約六千年前のものと確定されている。
洗心園の玄機老師と天徳寺
ついで、この三方湖を一望できる小高い岡(石観音へ登る途中)にある「洗心園」の跡を訪ねた。ここに庵を結んで余生を送られた玄機老師のことは、平泉澄博士が雑誌『日本』(昭和二十九年三月号-後『山河あり』所収)に紹介され、また遺蹟保存会編『洗心園-宇野玄機老師と洗心園の語録』(同四十九年刊)に詳しい。
それによれば、老師は自室に「天皇陛下萬々歳」という墨書、「師匠旭玄和尚」の肖像、父宇野儀左衛門と母みよの肖像を三軸並べて掲げ、主上と恩師と両親に感謝の祈りを捧げ続けられたという。
また、洗心園の浴室に谷川の水を引くため、老師の甥(県会議員)が鉄管の寄付を申し出たところ、それを断った老師が、「鉄といへどもいずれ錆びたり壊れたりする。竹を使へば四・五年ごとに取り替へることが大切だ」と云って、竹藪の寄進を受けられた。しかも、その際「万代不易と云ひ、天壌無窮といふのは、放置してさうあるといふのではない。たゆみなく努力してこそ初めて可能になる」と諭されたという。
なお、老師の甥とは、兄の子(第八代宇野儀左衛門)で、大正四年(42歳)から県会議員などに選ばれて地域に尽くし、また若狭でモラロジーを始め広めた恩人としても知られている。
さらに、上中へ戻って天徳寺にお詣りした。この寺(現在真言宗)は、約千三百年前の養老年間、泰澄大師が当地の山腹に馬頭観音を安置したのに始まると伝えられる。やがて村上天皇の天徳元年(八五七)、観音の霊験が天聴に達し、勅旨を賜って、当地に堂塔が整えられたので、時の年号を寺号にしたという。
実は当寺の講堂において丁度五十年前(昭和四十二年)、平泉博士と親交のあった今井長太郎翁(植物学者)を中心に夏季鍛錬会が開かれ、そのころ皇學館大学助手二年目の私も講師の一人として招かれたことがある。
その境内奥にある湧水「瓜割の滝」まで、湯川御住職と想い出話をしながら歩き、清々しい霊気に浸ることができた。そこは昭和六十年(一九八五)全国名水百選に選ばれ、その名水が翌年「全国豊かな海づくり大会」に来福された皇太子・同妃両殿下(今上・皇后両陛下)に献上されたこともある。
それから、江戸以来の風情豊かな熊川宿の街道を通り抜け、小浜市内の宿「やまね」へ着いた。ここは両殿下が三十一年前お泊まりになった上品な旅館で、モラロジー有志との懇親会のおもてなしも格別であった。
当夜は早めに休むべきところ、前述の永江さんから届けて頂いた前記の文集『洗心園』を読み始めたら止まらない。玄機老師の経歴・語録・逸話など、各々に感銘深いが、かつて老師から教えを学んだ有志の「洗心同志会」要綱が載っており、それに心打たれた。
その要綱には「一、尊皇護国の大義に終始す。/二、深く心霊を信じ神祇を崇敬す。/三、神儒仏の三教に帰依し、修身・斉家を旨とす。/四、心身・居宅の清潔を旨とす。/五、礼節を重んず。/六、他の善行に随喜し之に協力す。/七、責任を重んじ苟(いやしく)も回避せず。/八、よく和衷協力し、善良なる俚風を振起す。/九、泣言を言はず。/十、趣味を解し精神生活を豊富ならしむ。」とある。
しかも、老師はこれを自身実践するのみならず、当地出身の佐久間勉大尉(潜水艦訓練中殉職)こそ、平生の学問で責任を全うした偉人として遺徳の顕彰に努められた。その事業・例祭が今も続いている。
八坂神社の崎門祭と知恩院の魚屋八兵衛碑
翌二十六日(日)は午前中、若狭町の公民館パレア若狭ホールで、福井県モラロジー協議会主催の講演会が開かれ、「両陛下に学ぶ日本の心」という題の話をさせて頂いた。その冒頭で、玄機老師が洗心園に掲げ仰がれた三幅の掛軸に触れ、私共は自分を生み育ててくれた両親と、自分を教え導いて下さった先生と、自分を日本人たらしめられる主上から、直接間接に賜っている御恩を常に忘れないことの重要性を話した。
その終了後、昼食もららずにKさんの車で京都へ向かう。いわゆる鯖街道を通ったが、両側は紅葉の真っ盛り。好天にも恵まれ、約一時間半で八坂神社に着き、午後一時からの崎門祭に参列することができた。
祭典後の講話は、最近『GHQが恐れた崎門学』を著わされ『月刊日本』の編集長を務める坪内隆彦氏が、崎門の学統と現代の話題について判りやすく解説された。
その後、五時まで懇談会があり、続いて懇親会にも出るべきところ、初めて参加された京都歴史研究会の代表者に勧められて、近くの知恩院へ行った。寺詣りのためではなく、山門の脇で近年発見された「奥八兵衛」の顕彰碑を視るためである。
八兵衛は江戸初期に京都御所などへ出入りしていた魚屋の主人である。当時の後光明天皇(一六三三~五四)は、姉の明正女帝から十一歳で皇位を承け継ぎ、朱子学の研鑽と自身の修養に励まれた。痘瘡に罹られて二十二歳で急逝されたが、生前から仏式の火葬でなく儒式の土葬を望んでおられた。それを伝え聞いた八兵衛は、何とか御遺志を叶えて差し上げたいと陰ながら奔走し、ようやく実現させたと伝えられる。
ただ、一介の魚屋にそんなこと出来るはずがないという思い込みから、当時の公家日記や幕府記録に確証がないこともあって、戦後の京都市史などに何も書かれていない。しかし、この顕彰碑文をみると、明治十五年(一八八二)宮内省図書頭(ずしょのかみ)杉孫七郎(明治天皇の侍補、のち皇太后宮大夫)が、八兵衛の功績を顕彰しており、皇室で公認されていたことになる。
産大法学部の五十周年の記念講演
さらに二十七日(月)は、午前中ホテル近くの京都御苑を散策し、和気清麻呂公を祀る護王神社へ参拝した後、京都産業大学へ向かう。法学部創設五十周年記念事業の一環として、神山(こうやま)ホールで開かれた法学会の記念講演会に出るためである。
私は昭和五十六年(一九八一)から平成二十四年に定年退職するまで、三十一年間、京都産業大学に奉職した。そのうち最初三年間は教養部、途中九年間は日本文化研究所に籍を置いたが、法学部(および法学研究科)で教えた学生は一万人近い(その他、一般教育の受講生は数万人にのぼる)。
とはいえ、「日本法制史」は、法学部で中心の実定法や政治学に較べると、専攻ゼミ生も少ない基礎法である。そんな隅っこの担当者が、まさか五十周年の機会に「象徴天皇〝高齢譲位〟の法制と儀式」というテーマで講演をさせて頂くことになるとは、感慨無量というほかない。
幸い学内の学生だけでなく、一般の方々も数多く来聴して下さった。その全容は後日『産大法学』に掲載予定であるが、簡単なレジュメを後に載せておこう。
その後、京都府の双京構想関係者が大学に来られ、来年の明治維新百五十年に向けて、大正・昭和の大礼関係資料を映像化する事業の監修を依頼された。暫く益々忙しくなりそうである。 (かんせいPLAZA 平成二十九年十一月二十九日記)