三度目・最高齢の皇居勤労奉仕メモ



三度目・最高齢の皇居勤労奉仕メモ                   (HpかんせいPLAZA)  所  功
師走第三週は、幸いにも「皇居勤労奉仕」(以下「奉仕」と略称)をさせて頂き、昨夜帰宅した。その全容は、団長辻田充司氏(57歳)のもとで纏められる奉仕記録を、ぜひご覧頂きたい。ここには私自身の思い出と雑感をメモしておこう。

敗戦直後「みくに奉仕団」による快挙
この「奉仕」は、いつ何故に始まったのか。それ自体、まことに重要な出来事である。宮内庁編『昭和天皇実録』第九(平成二十八年九月刊、東京書籍)昭和二十年十二月八日条に、次のごとく記されている(丸括弧内は私注)。
「(天皇、44歳)午前十時五十分より十一時まで、宮城(同年五月二十五日深夜の米軍爆撃機による空襲の飛び火で翌日未明、宮殿も大宮御所・東宮仮御所なども全焼していた)焼け跡へお出ましになり、みくに奉仕団六十三名[宮城県栗原郡下の五町・二十二箇村よりの上京者・・・]による宮殿焼け跡の整理作業を御覧になる。同団長鈴木徳一をお召しになり、慰労の御言葉を賜ひ、併せて宮城県栗原郡の近況等につき種々御下問になる。還御の際、奉仕団一同による君が代(当時GHQにより斉唱を禁止されていた)の合唱をお聞きになる。十一時過ぎ、皇后(42歳)も同所へお出ましになり、作業を御覧、団長ほかに御言葉あり。
副団長長谷川峻[前情報局総裁(緒方竹虎)秘書官]によれば、みくに奉仕団は、宮城県栗原郡筑館町を中心とする付近町村青年男女の団体にして、君民一体、一国一家の日本本来の伝統に基づき、真の道義的平和的新日本建設のために奉仕することを目的として結成される。一同は、昨七日に上京、本日より十日まで宮殿焼け跡の片付けを行い、併せて紅白餅及び鶏卵を献上する。十日、侍従次長木下道雄より一同に対し、献上の紅白餅を天皇が召された旨が伝達される。なお、勤労奉仕につき、左の御製あり。
戦にやぶれしあとのいまもなほ 民のよりきてここに草とる
をちこちの民のまゐ来てうれしくぞ 宮居(みやゐ)のうちにけふもまたあふ  」
すなわち、これは敗戦からまもなく、東北地方の青年男女が、「日本本来の伝統である君民一体・一国一家」の信念に基づいて「真の道義的平和的新日本建設のために奉仕すること」を目的に結成された「みくに奉仕団」が思い付いて決行した快挙である。真心さえあれば、無位無冠の民間有志でも、みくに(天皇を中核とする国家)のために奉仕することができる、という実例を範示した意義は、極めて大きい。

皇學館大学と京都産業大学からの奉仕
こうした「奉仕」は誰でもさせてもらえる、という耳よりの情報は、その後ひそかに伝えられ広まった。それを私は、昭和四十八年(一九七三)春、郷里(岐阜県揖斐川町)で奉仕に行って来られた小川三雄氏(シベリア抑留帰国者)から聞き、早速そのころ在職中の皇學館大学で担任クラスの国史学科十期生に呼びかけ、その十二月下旬(冬休み)初めて奉仕に上った。
この時は、私(助教授、32歳)が団長、また親友の清水潔氏(助手、現在学長)が副団長を務め、団員は男女学生三十数名が参加してくれた。往復旅費も四泊宿代も学生たちには重過ぎるので、私が少し負担したが、四日間の奉仕は何物にも替え難い貴重な体験となったにちがいない。
まず初日(二十日)の午前中、宮内庁の職員に皇居内を案内して頂き、午後は二十五日の大正天皇祭に先立って、宮中三殿の近辺を清掃させて貰った。ついで二日目は、午前と午後、新年の儀式行事に備えて、新宮殿へ三代将軍ゆかりの盆栽(松)や明治以来の使い古された木製の倚子などをリヤカーで運ぶ大役を手伝った。
しかも、その昼食後、吹上御所の通路脇で六団体約三百名が整列して、両陛下から御会釈を賜った。天皇陛下が大声で「皆ご苦労でありました」と仰せられ、続いて皇后陛下が笑顔で「気をつけてお帰りあそばせ」と言われた時の感動と感銘は、今も鮮かに覚えている。
さらに三日目は、赤坂の御用地へ参り、午前と午後、東宮御所の周辺などで、大量の落葉拾いと砂運びに汗を流した。しかも昼食後、東宮御所内の広間に全員がぎっしり並ぶと、皇太子殿下(40歳)と同妃殿下(39歳)および浩宮様(13歳)・礼宮様(8歳)・紀宮様(4歳)が揃ってお出ましになり、各団ごとに御言葉を賜った。団長の私は、感激の余り皇太子殿下から何か尋ねられたのに、何をお答えしたか覚えていない。
その帰り際、十月の式年遷宮直後に出版した拙著『伊勢の神宮』(新人物往来社)をM東宮侍従に差し上げた。すると数日後、それを両殿下に御覧頂いたうえで、浩宮様にお渡ししたところ、興味深く読んでおられる、との御手紙が届いて、全く驚嘆した。
最終日(二十三日)は、三たび皇居へ参り、午前中と午後二時半頃まで、女子学生が方々から落葉などを運んで来ると、男子学生が大きなサイロに入れて踏み付ける作業を楽しんだ。その後、各団の代表者に対して、宮内庁の職員から御下賜の御菓子と特製写真を頂き、それを皆に頒けて帰途についた。
それから九年後の昭和五十七年(一九八二)十二月、その前年に文部省から京都産業大学へ転任していた私(41歳)は、有志学生三十数名と共に二度目の「奉仕」を実現した。その日程は初回と大差ない。また両陛下と両殿下から御会釈を賜った学生たちの感動ぶりは、前回に優るとも劣らない。
とりわけ嬉しいことが二つある。その一つは皇大でも産大でも奉仕した学生の中から作業を見守っていた皇宮警察官にあこがれて、受験し合格した者が現れたことである。もう一つは、皇大でも産大でも、講義やゼミの合間に「奉仕」の体験を話したところ、まもなく学生や院生の有志が中心となって奉仕グループを作り、それが平成に入ってからも毎年継続されていることである。

「日本の文化に学ぶ会」の一員として
この「奉仕」を体験すれば、日本文化の中核にある皇室を、単なる知識でなく実感として理解することができる。そんな確信を折あるごとに話し続けてきた私は、年齢制限の七十五歳までに、もう一度奉仕させて頂きたいと思い、昨年十二月、大阪のK氏を団長とする奉仕グループの勉強会でつぶやいたことがある。
すると、その時も世話役の一人であった畏友の辻田氏が、友人などに呼びかけると、直ちに六十名近い応募があった。そこで、私も団員として参加できる日程案を宮内庁に申し込んだところ、何とギリギリ(誕生日前日)の十一日を初日とする奉仕が許可されたのである。しかも、その参加者大多数が一緒にオリンピック記念青少年研修センターで宿泊し、夕食後に勉強会や懇談会もできるように計画された同氏の献身的な御尽力には、ただただ感謝するほかない。
ところが、奉仕の数日前、同氏の義父が他界されたので、喪中に皇居へ参入することを遠慮して、最後まで裏方に徹し切られた。そこで、急に奉仕行動中の団長代理を委任された野崎眞夫氏(70歳)をはじめ、数名の世話役各位が一致団結して、全日程を順調に運営された御努力に、あらためて御礼を申し上げたい。
今回は、まず十日(日)に集合して、明治神宮と靖國神社に参拝(前者の文化館と後者の遊就館で開催中の特別展も見学)。ついで十一日(月)から皇居で奉仕が始まり、翌十二日(火)赤坂の御用地で三笠宮邸近辺を清掃の途中(午後)、東宮御所内で皇太子殿下(57歳)から御会釈を賜った。さらに翌十三日(水)再び皇居で清掃の途中(午前)、蓮池参集所において天皇陛下と皇后陛下から御会釈を賜った。その感動・感銘は、前二回にも増して大きく深い。
そして最終日の十四日(木)三たび皇居へ参り、丁度この日を含めて三日間のみ宮内庁の庁舍で開催中の文化展を見学し、お正月に歌会始めで披講された天皇陛下の御製宸筆と皇后陛下の御歌真筆などを間近に拝見できたのは、望外の幸運といえよう。しかも、その後、宮殿の周辺を清掃する合間に、平成二年十一月十二日「御即位礼」の行われた正殿や、天皇が公務をなさる表御座所のあたりを見学できたのは、予想外の有り難いことである。
さらに個人的なことながら、十一日夜の勉強会で「奉仕」の来歴と意義について話をさせて頂いた際、参加者全員からの誕生日プレゼント(一位の木で包まれ特製の万年筆)を贈られた。しかも最後の解団式で、皆さん一人一人のメッセージを書き入れた色紙(五枚)を頂いた。こんなサプライズは、全く思いもかけないことで、帰省後に家内もびっくり、孫娘たちも「おじいちゃんステキ」と喜んでくれた。
なお、今回の奉仕者は、辻田団長と懇意な方々が大部分で、私は初対面という人も多かったが、一緒に作業しながらほとんど全員と親しくなった。それは各々の真心がごく自然に繋がったからであろう。かねてから私は、「普段着の真心」を胸に秘め、それを随所で自在に活かすことが最も大切だと考えている。その真心を今回の奉仕により、皆さんと共有し発揮できたことが、何よりも嬉しい。今後も、この思いで可能な限り「みくに奉仕」に務め続けよう。   (平成二十九年十二月十五日夜記)

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