この四月十九日(日)には、昨年五月一日に践祚された今上陛下(満60歳)の弟君秋篠宮文仁親王殿下(54歳)が「立皇嗣の礼」を行われる予定であった。それが「新型冠状病毒」の感染防止対策として延期されたのは、残念であるが止むをえない。
ただ、平成二十九年六月、天皇の高齢譲位を可能にする「皇室典範特例法」を衆参両院で成立させる際に合意された「附帯決議」の検討は、遅ればせながら三月に入るころから政府が内々に「有識者への意見聴取」を始めた。それは誰に何を聴いたか、内秘とされてきたはずである。
ところが、四月十六日の産経新聞は、一面に「皇位継承/旧宮家復帰、有識者に聴取/政府、論点整理へ明記焦点」との大見出しを打ち、「内閣官房の職員が個別に有識者を訪ねて……旧宮家の復帰については、▽旧宮家の未婚の男子が内親王と結婚▽現存する宮家に養子に入る▽皇籍取得―などの考えを聴いたという」と報じている。
しかも、十六・七・八・九の四日間、特集「皇位継承論議を振り返る」を連載した。これ自体は熱心な取り組みで有り難い。とくに初回に平成七年から八年半も内閣官房副長官を務めた古川貞二郎氏(85歳、恩賜財団母子愛育会理事長)の詳しいインタビュー記事を掲げ、「旧宮家復帰、国民納得するか」と題しているのは、的確な情報提供といえよう。
けれども、その「旧宮家」についての説明が十分とはいえない。初回の3面に「皇籍離脱した旧皇族十一宮家の系統」と題して略系図を掲げるが、これだけみると、昭和二十二年(一九四七)十月皇籍離脱を余儀なくされた十一宮家が現存するような錯覚を与えかねない。
そこで、従来いろいろな形で公表されている「旧宮家」の現状に関する情報(別紙略系図の参考文献参照。一部分未確認)に基づいて纏め直すと、戦前から宮家を継承(相続)して当主となりうる長系長男の有無により、すでに半数以上が絶えており、今後とも長系男子が当主となり存続可能なのは四家にすぎない。
それを少し詳しく説明すれば、いわゆる四親王家のうち、最も古い①伏見宮家(初代栄仁親王=一三五一~一四一六)は、第二四代伏見博明氏(88歳)に男子がない(女子は三名)。また②閑院宮家(初代直仁親王=一七〇四~五三)は、第七代閑院純仁氏(一九〇二~八八)に継嗣がなく絶えている。
なお、近世の桂宮家は、第一一代に淑子内親王(仁孝天皇皇女=一八二九~八一)を養子に迎え、初の女性宮家となったが、未婚のまま薨去されたので絶家となった。また、有栖川宮家は、第一〇代威仁親王(一八六二~一九一三)の継嗣が早逝し、明治の典範で皇族に養子を取ることもできず絶家となった。
ついで近代に入り創立されたのは(天皇の直宮以外)、ほとんど伏見宮第二〇代邦家親王(一八〇二~七二)の男子か男孫であるから、男系で辿れば明治天皇と四十代ほど離れている(ただ、十七日に阿比留瑠比氏の指摘する「明治天皇の皇女が嫁ぎ……(母方を通じて現皇室と)「縁」が深い」といえる四家がある)。
そのうち、③久邇宮家(初代朝彦親王=一八二四~九一)は、第四代久邇朝融氏(一九〇一~五九)の後を継いだ邦昭氏(91歳)に二男一女がある。その長男朝尊氏(60歳)と次男邦晴氏(58歳)は、共に結婚され男子を授かっているようである。また、邦昭氏の弟に朝建氏(79歳)と朝宏氏(75歳)があり、前者の長男に明俊氏(48歳)がおられる。
ついで④山階宮家(初代晃親王=一八一六~九八)は、第三代山階武彦氏(一八九八~一九八七)に子女がなく絶えている。なお、武彦氏の弟四名は、戦前すでに臣籍降下し、山階・筑波・鹿島・葛城(いずれも華族)の家名を賜っている。また、⑤梨本宮家(初代守脩親王=一八一九~八一、伏見宮一九代貞敬親王の王子)の第三代梨本守正氏(一八七四~一九五一、久邇宮朝彦親王の王子)には男子がなく絶えている。
つぎに⑥賀陽宮家(初代邦憲王=一八六七~一九〇九、朝彦親王の王子)は、第二代賀陽恒憲氏(一九〇〇~七八)に六男一女があった。けれども、長男の邦寿氏(一九二二~八六)に継嗣がなく、次男の治憲氏(一九二六~二〇一一)にも継嗣がない。そのために、三男の章憲氏(一九二九~九四)の長男正憲氏(60歳)が第三代を継いだ形になっており、そこに二人男子(24歳と22歳)がある。
さらに注目すべき四家がある。そのうち、⑦北白川宮家(初代智成親王=一八五六~七二、第二代その兄能久親王一八四七~九五)は、第三代成久王(一八八七~一九二三)が房子内親王を妃に迎え一男三女を儲けられた。その嫡孫道久王(一九三七~二〇一八)が、父永久王(一九一〇~四〇)の戦死により第五代を継いで戦後北白川道久となられ、三人の女子を儲けられたが、継嗣なく絶家とならざるをえない。
また⑧竹田宮家は、北白川宮能久親王の王子恒久王(一八八二~一九一九)が明治三十九年(一九〇六)宮号を賜り二年後に昌子内親王を妃に迎えられた。その長男恒徳王(一九〇九~九二)が二代目を継いで三男二女を儲け、戦後竹田恒徳となられた。その長男恒正氏(79歳)が三代当主であり、一男一女を儲けられた。その長男恒貴氏(45歳)は既婚であるが、継嗣の有無は確認できていない。なお、その二男恒治氏(75歳)には男子二人、三男恒和氏(72歳)にも二男一女がある。
ついで⑨朝香宮家は、久邇宮朝彦親王の王子鳩(やす)彦王(一八八七~一九八一)が、同じく明治三十九年に宮号を賜り、四年後に允子内親王を妃に迎えて二男二女を儲け、戦後朝香鳩彦となられた。その長男孚彦(たかひこ)氏(一九一二~九四)が第二代、嫡孫の誠彦(ともひこ)氏(76歳)が第三代を継ぎ、その長男明彦氏(48歳)がおられる。
もうひとつの⑩東久邇宮家は、朝彦親王の王子稔彦(なるひこ)王(一八八七~一九九〇、102歳)が、同じく明治三十九年に宮号を賜り、九年後の大正四年(一九一五)、聡子内親王を妃に迎えて四男を儲けたが、早くから皇籍離脱を申し出ておられた。
その長男盛厚王(一九一六~六九)は、昭和天皇の長女成子(しげこ)内親王(一九二五~六一)と昭和十八年(一九四三)結婚して三男二女を儲けられたが、父稔彦氏より先に他界したので、二代目は盛厚氏の長男信彦氏(一九四五~二〇一九)が継ぎ、その嫡男征彦氏(47歳)が第三代を継ぎ、そこに二人男子がある。なお、信彦氏の弟秀彦氏(71歳)は壬生家に入って基博と改名し、孫二人がある。また三弟の東久邇真彦氏(67歳)の長男照彦氏(40歳)と弟睦彦氏(39歳)には、それぞれ男子があるとみられる。
なお、⑪東伏見宮家は、依仁親王(邦家親王の王子)が、明治三十六年(一九〇三)創立を勅許された。しかし、大正十一年(一九二二)薨去し、妃周子(岩倉具定の娘)との間に子女なく、周子が同家を預かっていたので、昭和二十二年当時も存続していたことになるが、その他界により絶えた。同家の祭祀は、久邇宮の邦英王が昭和六年(一九三一)臣籍降下する際に東伏見の家名を賜り継承している。
以上を要するに、いわゆる旧十一宮家のうち、男系長系の長男による継嗣が不在のため、A既に絶家となったのが、②閑院・④山階・⑤梨本・⑪東伏見の四家、Bいずれ絶家となるのが①伏見・⑦北白川の二家であり、C今のところ存続可能なのは③久邇・⑧竹田・⑨朝香・⑩東久邇の四家にすぎない。ただ、⑥賀陽家は三男の子孫により継承されているが、これを加えてよければ五家となる。
すなわち、かつて十一あった旧宮家も、側室庶子を認めずに長系の長男に限る継嗣で相続することは難しく、早晩三分の一か四分の一にならざるをえない状況にある。従って、皇位の男系男子による継承を「原理」として今後も可能とするために「旧宮家」の「皇族復帰」などを主張される人々は、この現実を直視する必要があろう。
ちなみに、このような宮家継嗣の厳しい要件を定めたのは、大正九年(一九二〇)制定の「皇族降下に関する施行準則」である。その成立事情と概要解説は別稿(添付論文)を参照して頂きたいが、明治二十二年(一八八九)制定の「皇室典範」で認めた永世皇族制により宮家皇族が段々と過多となったので、準則第一条に「皇玄孫の子孫たる王……長子孫の系統四世以内を除くの外、勅旨に依り家名を賜ひ華族に列す」と定め、男系では現皇室と遠い伏見宮二〇世以下に関して「故邦家親王の子を一世とし、実系により(養子不可)之を算す」という付則を設けたからである(菊栄親睦会の正式会員も、長系長男当主夫妻に限られているようである)。
しかし、私は最も重要な皇位継承の資格を「皇統に属する男系の男子」だけに限定すること自体無理があり、「男系の男子」を優先しながら、万一に備えて「男系の女子」も一代限りで公認する(現存宮家も「男系の女子」による相続も可能とする)必要があると考える。まして七十年以上前に皇籍を離脱した「旧宮家」の場合、一般国民の家では長男以外(次男や長女など)が相続する場合も少くない。従って、現存の旧宮家に長男以外に男女子孫があれば当家の相続を認めてよいのではないかと思われる。
その上で、もし皇位継承も宮家相続も現行どおり「男系の男子」を継続するのであれば、このような「旧宮家」子孫(次男以下も含む)のうち、本当に皇族らしい品格を備えた適任者があれば、継嗣のない現存宮家に「養子」として迎えられ、やがてその子孫(男子優先)に皇位継承の資格を認めるようなことも、窮余の一策として検討されたらよいであろう。
なお、本稿の不正確・不明確な点などに気付かれたら、ぜひ御示教を賜りたい。
別稿を添付いたします(下記)。ご参照下さいませ。
「皇族降下の施行準則」解説