「万世一系」の天皇は「皇統に属する皇族」から



「万世一系」の天皇は「皇統に属する皇族」から        所  功

五年前の五月一日は、皇太子徳仁親王(五十六歳)が、「剣璽等承継の儀」により名実ともに天皇の地位(皇位」を「世襲」された。それ以来、今上陛下が父君(上皇陛下)を直接のお手本として「象徴」のお務めを誠実に果たされつつあることは、真にありがたい。

「皇統」に男系絶対の原理はない
皇室には一般国民の「戸籍」にあたる公的な「皇統譜」があり、宮内庁で保管されている。それは天皇・皇后の「大統譜」と他の全皇族の「皇族譜」から成る。
その「大統譜」の「神武天皇」は、「世系第七」と記され「世系第一」の「天照皇大神」から数えて七世孫と公認されている。この天照皇大神は、記紀に女神(母神)として描かれ、今なお「皇親神」と仰がれる。しかし、さりとて神武天皇は神代からの〝女系〟継承などと敢えて言う必要はない。
同様に、神武天皇から今上陛下へと続く「皇統」も、〝男系か女系か双系か〟などと賢(さか)しらに議論することも、あまり意味がない。
なぜなら、同族家系を男系・女系に分けて、男系(父系)こそ絶対という〝男尊女卑〟の原理を作ったのは、古代(周代以降)の中国である。彼の地では、「姓氏」をもつ有力豪族が他の氏族と戦って建てた王制が、父系継承を厳守してきた。
それに対して、わが国では、縄文時代から男尊女卑の風習が見あたらない(むしろ母性尊重の信仰が根強い)。しかも、弥生中期から古墳時代(およそ1C~6C)に国内統合を進めた大和朝廷の大王(天皇)は、他の帰伏豪族らに「氏・姓」を下賜したが、それを自ら称する必要がなく、万世に亘り臣民クラスの氏も姓もない格別な御存在である。
従って、歴代の継承者に男性が多いことは事実であり、それを男系とみても構わない。ただ、決して女性(女帝)を否定したり、いわゆる女系(母系)を排除したこともない。

「万葉一統」の歴代は、男性皇族優先
このように、日本の皇室は天照皇大神を「皇祖」と仰ぎ、「皇統第一」の神武天皇以来、ほとんど男性皇族を優先しながら継承されてきた。それを幕末に吉田松陰は『士規七則』で「皇朝は万葉一統にして・・・我が国を然りとなすのみ」と説いている。
それゆえ、明治九年(一八八六)元老院編『国憲草案』「皇位継承」をみると、「同族に於ては、男は女に先だち、同類に於ては、長は少に先だつ」という原則を提示しいる。
また、同十二年、民間の鸚鳴社編『憲法草案』には、「皇族中に男無き時は、皇族中、当世の皇帝に最近の女をして皇位を襲受せしむ」と、皇族男子が不在なら当代に最も近い皇女の皇位世襲を提示している。
さらに、同十八年ころ、宮内省立案の『皇室制規』でも、「皇族中の男系絶ゆるときは、皇族中の女系を以て継承す」「皇統の女系にして皇位継承のときは、その皇子に伝へ、もし皇子なきときはその皇女に伝ふ」と、女帝も女系も容認している。
つまり、明治前半までの、皇位継承論者は、官民とも皇統中の皇族男性を優先しながら、皇族女子もその皇族子孫も含めて、万一の将来に備えようとしていたのである。
それが、同二十年「制度取調局長官」井上毅の作成した「皇室典範説明草案」で、「皇祚を践むは男系に限る」と限定され、同二十二年(一八八九)制定の「皇室典範」に至り、「大日本国皇位は、祖宗の皇統にして男系の男子これを継承す」と規定された。それが再検討を経ずに戦後の皇室典範にも引き継がれている。
しかし、これは歴史的な男子優先の慣例を絶対的な原理と錯覚した過度の規制なのである。当面、現実的に必要な課題は、皇位継承の有資格として「皇統に属する皇族」のうち、男性を優先しながら女子も容認することだと思われる。

(令和六年四月三十日記)

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