今谷明氏の曖昧な「象徴天皇」論を考え直す
京都産業大学名誉教授 所 功
今谷明氏(昭和十七年生まれ)は、京大で経済学と史学を修め、「室町幕府解体過程の研究」で学位を得た有名な中世史家である。
しかも、一般向けの新著などを次々と著して、戦国期の天皇は権力を越えた「象徴的存在」ながら、その権威ゆえに、世俗的な執政者などに「箔を付ける」ような役割を果たしてきたことを、日記や文書などで論証し、かなり注目を浴びてこられた。
『象徴天皇の発見』の論述は不確か
その代表作が『象徴天皇の発見』(平成十一年、文春新書)である。全七章の論点は多岐にわたり、博識をちりばめられているから、読み物として面白い。
ただ、テーマの「象徴天皇」について明確な定義が見当たらず、僅かに終章の末尾で、天皇は「不執政であるからこそ、いざという場合・・・時の権力者に正当性を与えることのできる高い権威を持ってきた」と総括されているにすぎない。
本書の第四章によれば、平安前期の嵯峨天皇(七九六~八四二)は、在位中(十四年)「カリスマ性を備え」、譲位後(十九年)も「実質的な院政をしいた」とある。
ところが、その崩御後から、藤原氏北家の「良房は娘明子を文徳の後宮に入れ」、嫡子の「幼児惟仁(のち九歳で清和天皇)を皇太子に立て」る際、「幼帝」に「資質・能力は全く問われていない」から、「象徴として、鎮座ましましているだけでよいという・・・象徴天皇の登場をつげた」とみる。
有識者ヒアリングの公述も不確か
この今谷氏は、平成二十四年(二〇一二)二月、政府(野田内閣)の「皇室制度に関する有識者ヒアリング」において、持論を公述された。それによれば、「天皇家が・・・権威的存在となったのは・・・平安時代の前期で・・・嵯峨天皇(上皇)の晩年、だんだん政治をされなくなって・・・藤原緒嗣・・・が徐々に執政するようになってきた」という。しかし、これは前掲の同氏見解と少し矛盾する。しかも近年の研究では、嵯峨天皇(上皇)と藤原冬嗣・良房の連携、文徳・清和両天皇などの治績が評価されている。
ところが、同氏は「平安時代の前半に、こういうことが制度的にきっちり固まって、政治は藤原氏あるいは源氏以下の征夷大将軍(が行い)、天皇は一切政治をなされない・・・体制になった」と公言されている。しかし、平安中後期以後も、すべて天皇が「一切政治をなさらな」かったわけではない。
「象徴天皇」と仰がれる本質的な要件
そこで、あらためて「象徴天皇」の要件を考え直してみると、現行憲法にすら、まずA「皇位は世襲のもの」つまり大和朝廷以来の血縁子孫(皇統に属する皇族)のみが継承し、またB天皇は「日本国の象徴(代表者)」であり、「日本国民統合の象徴」(中心者)という唯一無二の役割をもち、さらにC「皇室経済法」の定める「皇位とともに伝わるべき由緒あるもの」として「三種の神器」などを受け継ぐことになっている。
このうち、Bの役割を果たすため、多くの天皇は、①幼少時から学芸・仁徳の修得に励み、②祖先と全国民のため伝統祭祀の斎行に努め、③国事の最終決定に携わってこられた。それは人と時によって名目的な場合も実質的な場合もあるが、①の資質により②と③を担われたからこそ、格別な権威を保ちえてきたのだと思われる。その天皇を単なる「不執政(飾り物)」とみることは当たらないであろう。 (令和六年七月八日記)