ふるさと(西美濃)文化の再発見
京都産業大学名誉教授 所 功
七十歳定年で三十一年間勤めた京都産業大学を退き、モラロジー研究所へ転じた私は、生まれ育った岐阜県(揖斐川町)から、娘家族の住む小田原市(国府津)へ居を転じた。 今年十二月で満八十三歳となるが、幸い健康に恵まれ、体の不自由な妻をサポートしながら、研究と執筆を続けている。
ふるさと(郷里)を離れることには忸怩(じくじ)たる思いもあったが、他郷に居ても故郷を忘れることはない。むしろ、齢のせいかもしれないが、ふるさとへの想いは年と共に強くなっている。
『白鳥の歩み―神社と神楽と狂俳―』
そんな折から、昨秋以来、一年近くかけて冊子『白鳥の歩み―神社と神楽と狂俳―』(B5判114頁)を仕上げた。これは、母の里で私も親しみの強い白鳥(現在、揖斐郡池田町)に伝わる「白鳥神楽保存会」と「白鳥奉燈狂俳保存会」から依頼され、当地域の来歴と「白鳥神社」(主祭神日本武尊)の由緒も併せて、可能な限り関係史資料を調べ尽くし、両保存会の関係者などに協力をえて纏めたのである。
これを機に、従来よく知らなかったことなどを学ぶことができた。その一つは、日本武尊(倭建命)が東国遠征の帰途、尾張から西美濃を経て伊吹山で戦いに敗れ、「まほろば」(真秀良場)の大和へ向かう途中で天翔(か)けられた、という記紀の古伝にちなみ、西美濃の各地にタケルミコトを迎え送った、という「口碑」も神社も多くあり、例祭に獅子神楽を奉納するなど、今なお大事にされていることである。
もう一つは、江戸時代に美濃でも盛んになった「俳諧」から独立した「狂俳」(五・七か七・五で十二音の短い自由詩)が、約二百年前に美濃で確立され、明治以降、この白鳥地区など西美濃一帯に流布し、それを農作業の傍ら老若男女が楽しんで作り、神社の例祭に奉燈した記録が伝存していることである。その数百句を紐解きながら、純朴な地域文化に共感し、庶民文化の底力を再発見して感銘を覚えた。
揖斐郡「文化財保護協会」の講演会と勉強会
このたび『白鳥の歩み』執筆を無償で引き受けたのは、平成二十四年(二〇一二)春、郷里で『野中の歩みと寺社の営み』(B5判86頁)を纏めて全七十五戸に差し上げたのと同様、歴史家として為しうる〝ふるさとへの恩返し〟になれば、という自然な思いと共に、それによって自分のルーツを探る手懸かりになれば、いう単純な願いもあったからである。
そんな両方の考えを懐く私は、ふるさと(主に西美濃)から依頼があれば、どのようなことでも都合のつく限り引き受け、また郷里に役立ちそうなことであれば、地元有志に協力を得て実行するよう努めてきた。たとえば、今月下旬に予定されているのは、次のような会合である。
その一つは、九月二十八日(土)午後二時から揖斐郡大野町の総合町民センターで行われる大野町文化財保護協会主催の創立五十周年記念講演である。もう一つは、翌二十九日(日)午後一時半から揖斐川町の地域交流センターで行われる同町文化財保護協会主催の「広木忠信に学ぶ集い」である。共に聴講自由(入場無料)。そこで話すレジュメは、近くこのホームページに添付し、また要旨は十月早々ここに掲載したいと考えている。 (令和六年九月十五日、もと「敬老の日」記)