昭和三十二年の植樹祭行幸啓と岐阜県御視察



昭和三十二年の植樹祭行幸啓と岐阜県御視察            所  功

小田原へ移り住んでからも、毎年秋のお彼岸前後に、生まれ育った郷里の岐阜県揖斐川町へお墓参りに帰り、小中学校の同級生たちと軽食を共にしてきた。
また、この機会に平成二年(一九九〇)から続けている郷里出身の広木忠信(一七八〇年急逝の崎門学者)に学ぶ集いを、揖斐川町文化財保護協会の主催で開いてきた。
その集いが、今年は昨日(九月二十九日)地域交流センターで町長・教育長や隣の大野町長をはじめ、町内外から百名近い参加者をえて実施されたことは、真にありがたい。
そこで、地元の林芳樹氏(歴史考古学者)から「小島城」の来歴、ついで高崎美穂子さん(白鳥奉燈狂俳保存会長)から「美濃狂俳」について、明快な説明を承り、さらに私が「昭和天皇の谷汲植樹祭を振り返る」と題して話した。

『昭和天皇実録』と『岐阜県御巡幸写真集』
その内容は、当時の体験記憶と既刊の公的記録に基づく。昭和三十二年(一九五七)の四月七日、天皇(56歳)は皇后(54歳)を伴い、郷里近くの谷汲(たにぐみ)で催された第八回全国植樹祭にお出まし下さった。当時高校進学早々の私は、友人たちと奉迎に駆け付けたが、後輩の中学生・小学生たちはクラスごとに揃っていた。この時に一瞬拝顔した両陛下の印象は、今も鮮明に覚えており、皇室への関心を懐く端緒となっている。
当日と八・九両日の御視察については、宮内庁編『昭和天皇実録』が簡明に記述している。また地元の岐阜タイムスにより纏められた『岐阜県御巡幸写真集』も参考になる。たとえば前者になく後者にみえる宮内庁行幸主務官から県当局に伝えられた「お言葉」(以下に抄出)は、重要な意味をもっていると思われる。
「本県は・・・平素から山林緑化のため努力していることも知り、まことに喜ばしく感じた。なおこの機会に(昭和二十一年十月下旬、岐阜県下の戦災地御巡幸から)十一年ぶりに県内の(復興)状況を見ることができ、・・・県民諸君の不撓不屈の精神によるものとして頼もしく思った・・・。県民諸君が今後、一層協力一致して、我が国経済の発展と国力の充実に寄与することを望んでやまない。」
これは壮年の昭和天皇が一般県民による普段の努力を「不撓不屈の精神よるもの」と実感され、今後も「国力の充実に寄与する」ことを期待された御叡慮として、更めて肝に銘じたい。

谷汲の「天皇林」台覧と「育樹祭」への行啓
この植樹祭で両陛下が植えられたスギの一帯は「天皇林」と名付けられ、関係者の丹念な手入れもあって見事な美林となった。それから二十年目の昭和五十一年(一九七六)七月、皇太子(42歳)・同妃(41歳)両陛下が、岐阜市で開催の全国献血推進大会に行啓の際、谷汲に立ち寄り美林の枝打を御覧になられた。これを機に、天皇の植えられた樹が成育した状況を次代の皇太子に御覧いただく意義が認識され、翌五十二年から、「全国育樹祭」が始められ(第一回大分県)、恒例行事となったのである。
その育樹祭第三十九回大会が、平成二十七年(二〇一五)十月十一日、谷汲の緑地公園で催され、皇太子殿下(55歳)の行啓を賜り、帰途「揖斐川歴史民俗資料館」も高橋館長の案内で御覧いただいた。そこで、同館には「皇室三代とゆかりの揖斐川町」と題する時別コーナーが設けられている。機会があればご覧いただきたい。
なお、今秋十月十四日から第三十九回「国民文化祭」岐阜大会の開会式に、両陛下の行幸啓が予定されている。           (令和六年九月三十日記)

昭和天皇・皇后両陛下のお姿 Epson_20240930211109

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)