「帝王学」(天皇教育)の来歴
所 功
ある全国紙の編集リーダーから「帝王学」についていくつかの質問取材を受けた。紙面にはごく一部しか出ないだろうと想われるので、用意した回答要旨のメモをここに掲載しておこう。
Q1 天皇に求められる教育は、古来どのように行われていたのか。
A1 天皇は、現行憲法にも「日本国の象徴」「国民統合の象徴」と位置づけられる格別な存在であるから、それにふさわしい教養と品位を身につけ、内外の人々より信頼と尊敬をえられるように努められなければならない。
そのため、古代から中国の名君・忠臣を敬仰してきた日本の朝廷では、皇位を承け継ぐ皇太子(東宮)の教導係として「東宮傅(ふ)」一名と「東宮大夫」二名が置かれ、主に儒教的な「帝徳」の育成に力を入れ、それが中世から近世まで続けられてきた。
このような訓育のために、直近の天皇が後継の皇族(皇嗣)に手本を示され、要諦を御日記や訓戒書により教えられた例も少なくない。
Q2 そのような帝王学(帝王教育)は、明治以降どのように変わったか。
A2 明治天皇は、御所で碩学から古来の儒教的な帝徳と、国学・和歌などを学んで伝統的な教養を修得され、洋学者から近代法制などを習い、また毎年正月の御講書始(和・漢・洋)も皇后と共に受けられた。
ついで大正天皇は、幼少時に「御学問所」で学び、また健康回復のため賓友と各地に行啓し、即位前後から御用掛による定時進講を受けておられる。
さらに昭和天皇は、学習院の初等科で院長乃木希典から訓育を受けられた。また中高一貫七年制の「東宮御学問所」が特設されて、各教科の御用掛から一般教養と帝王教育を学ばれ、摂政期も即位後も数名から常時進講を受けておられる。とりわけ、日本中学校長の杉浦重剛から「倫理」を学ばれた意味は大きい。また東大講師の服部広太郎から「博物」を学び、公務の合間に生物学の研究を続けられたことも、高く評価されている。
Q3 「学習院」が設立された背景、およびそこで皇太子・皇族が学ばれた実情はどうか。
A3 「学習院」は、幕末に公家の子弟用勉学所として開設され、その名称が、明治十年代に英国の貴族学校を手本として創設された「華族学校」に引き継がれた。この宮内省立学校は、当初、男女共学であったが、男子は「兵事を第一とす」とされ、まもなく男女別学となり、大正十五年=昭和元年(一九二六)公布の「皇族就学令」で「男女皇族」は六歳から二十歳の間に「学習院又は女子学習院において就学す」べきことが定められた。
その前から、大正天皇(嘉仁親王)も昭和天皇(裕仁親王)も他の親王・王も(および女子の内親王・女王も)学習院(および女子学習院)に就学されてきた。それが戦後(昭和二十六年)私立学校になってからも続いていた。しかし、平成後半から学習院高等科を卒えて他大学へ進む皇族女子が増え、また秋篠宮御長男の悠仁親王は、御両親のご意向により幼稚園から学習院以外の国立学校を選んでおられる。
Q4 戦後の皇太子は、従来のように特別な帝王教育を受けて来られたのか。
A4 平成の天皇(明仁親王)は、戦後御学問所が設立されなかったため、学習院の中・高等科から大学まで一般的な教育を受ける傍ら、昭和二十四年(一九四六)より「東宮御教育常時参与」の小泉信三博士から週二回ほど象徴天皇となる心得を教えられた。そのころ米国のヴァイニング夫人から英語などを学ばれた意味も少なくない。
さらに生物学(ハゼの分類)の研究に専門家の協力を得て着実に取り組み、また諸分野の有識者たちを御所へ招いて見識を深め高められた。
令和の今上陛下(徳仁親王)も、学習院で一貫して一般教育を受ける傍ら、御所において初等科期から『論語』を学び、中等科・高等科期には歴代天皇の御事蹟を専門家から学ばれた。大学では日本史学を専攻して自ら研究テーマを見出し、それを活用しながら、「水問題」の専門家として研究実績を積み、国際的な活躍もされている。
なお、皇太子時代には、お印にちなむ「梓(あずさ)会」という内輪の勉強会を開き、十数名の多様な専門家たちと意見交換をされてきたようである。
しかも、何より重要なことは、祖父の昭和天皇と父君の上皇陛下から、身近に「象徴天皇」の在り方を学び取り、それを受け継いで実践しておられることである。従来も今後も、「帝王学」(天皇教育)は、過去と現在の天皇が最高の師範であり、その心得と品位が皇太子(皇嗣)をはじめ全皇族にも伝わることが望まれる。
Q5 人望の高い愛子さまは、皇族女子として、どんな教育を受けてこられたのか。
A5 皇位を継ぐ一位の皇太子(皇嗣)だけでなく、他の男女皇族も天皇を支え公務を担う立場にあり、そのために特別な修養が必要である。それは学校において学べるものでなく、生まれ育つ皇室において内廷と宮家の方々から見習われ、皇族として実践に努められる。その自覚を敬宮愛子内親王も、ご自身で端的に示されている。
そのご覚悟は、令和三年(二〇二一)十二月一日「成年」に達した際のご感想のなかで、「これからは成年皇族の一員として、一つ一つのお務めと真摯に向き合い、できる限り両陛下をお助けしていきたいと考えております」と記されている。
また、より詳しくは、翌四年三月十七日、公的な記者会見をされた際、上品に堂々と笑顔で次のように述べておられる。
「私は幼い頃から、上皇・上皇后両陛下をはじめ、皇室の皆様が、国民に寄り添われる姿や、真摯に公務に取り組まれるお姿を拝見しながら育ちました。・・・皇室の皆様は・・・それぞれに専門とされるような分野をお持ちで・・・その深い知識を公的なお仕事にも役立てられ・・・このような立場で研鑽を積むということの意義をお示しくださっているように想います。
そのほかにも、(宮中内外の)行事の際などに・・・皆様の御所作や立ち居振る舞いをお側で拝見し、そのなさりようをお手本とさせていただきながら、少しでも皆様に近づくことができますよう、努力したいと思っております。・・・
これまで両親には・・・私の成長を愛情をもって温かく見守っていただいて・・・深く感謝しておりますので、これからも長く一緒に時間を過ごせますように・・・と思います。」
これは皇室(内廷)で生まれ育たれたからこそ身に付けることのできた見識を率直に示されたもので、皇族教育(広義の「帝王学」修得)の賜物とみてよいと思われる。
このような皇族にふさわしい「品位」を保持し、見識を体得された愛子さまでも、「皇室典範」の第一原則を改正しなければ、皇位を継承されるに至らない。 そうであれば、せめて第十二条の特例を設けて、皇族女子(内親王・女王)は、御結婚後も皇族の身分に留まり、夫君と共に皇族として当代の天皇を支えられ、皇室の多様な公務を担い続けられることが可能なようにすべきであろうと考えられる。 (令和六年十月十二日記)