(11)伊勢神宮の式年遷宮にちなむ覚書-後編



その五
新宮への早朝参拝と京都の会議
翌三日朝、早起きをして六時ころ宇治橋の辺りまで行くと、すでに五時の開門前から沢山の人々が新宮への参拝に続々と集まり、ずっと先まで一杯に連なっている。これでは容易に先へ進めないと思い、五十鈴川の御手洗場方向を避け、参集殿の脇から神楽殿の横へ出ることにした。

すると、斎館の手前で突然、真赤な鶏冠(とさか)の美しい純白の尾長鶏が現れて、見事に「カケコー」と鳴いてくれたのには、本当にビックリした。これは平成再遷宮を機として、世の中が明るくなる岩戸開きの鶏鳴かもしれない、いやそうにちがいないと想われた。

ただ、正宮の石段下は参拝者で満杯となり、なかなかお参りできそうにない。そのため、やむなく手前の御稲御倉から外幣殿の前を通り、朝日に輝く新しい御正殿を背後から拝み、第一別宮の荒祭宮へお参りした。そして、参集殿の辺りまで戻ると、先程の神鶏が庭石の上にいたので、とても嬉しくなり、携帯で写真に撮った(今も待ち受けにしている)。

その後、近鉄で京都へ向かった。先般から協力を求められていた「クールジャパン京都宮廷文化会議」の初会合に出席するためである。これは宮廷伝統文化の真価を国内外に発信し、五年後の明治改元満一五〇年(2018)国際的な「宮廷文化祭典」を京都で開催しようという壮大な企画である。

けれども、私は既に昨年から京都を離れており何の力もないので、オブザーバーとして顔を出したにすぎない。ところが、数日前にチーフ・プロデューサーのK氏から基調講話を頼まれ、やむをえず「日本的ソフトパワーの宮廷文化」と題するスピーチをさせて頂いた。

その際、日本の宮廷文化は、京都だけでなく神都伊勢も古都奈良も新都東京も併せて考えるべきこと、そこに一貫する歴代天皇の大御心が何であるかに深く想いを致すべきことなどを、控え目に申し上げたが、どこまでご理解いただけたかは覚束ない。

その六
盛和塾〈大阪〉の伊勢研修会
翌四日は京都で休み、五日と六日は伊勢で開かれた盛和塾〈大阪〉の研修会に出た。

盛和塾は、松下幸之助氏につぐスーパー・リーダー稲盛和夫氏(京セラ会長)の人生観や経営哲学を積極的に学び取ろうとする現役経営者有志の集まりである。国内外に一万人以上の塾生がおり、そのうち最も熱心で結束も固いのが大阪のグループ約一千人だという。

事実、私は一昨年その研修会に初めて招かれ、昼の講演・質疑だけでなく夜の座談会にも出て、参加者の高い志と強い熱意に感心した。それは今回も同様で、外宮遷御の行われる五日と奉幣の儀の六日、伊勢観光文化会館の大講堂を会場として塾生約四百名が集まり、「将来世代と共に生きる魂の経営-地球道徳共働態の創生へ向かって-」という雄大なテーマを掲げての大研修会が開催され、夜も賢島のホテルで懇親会と座談会が続行されたのである。

講師としては、私以外に遺伝子学者の村上和雄博士と比較文明論者の服部英二氏が招かれた。共にスケールの大きな御話で、私も拝聴して、教えられ考えさせられたことが多い。

それに対して私は、式年遷宮にちなみ「江戸時代の”おかげまいり”と”せぎょう”に学ぶ」と題する具体的な講話をした。すなわち、宝永二年(1705)から、ほぼ六十年ごこにブームとなった「御蔭参り」(毎回数百万人)は、ほとんどの人が無一文の抜参(ぬけまいり)だったこと、それにも拘わらず、人間だけでなく、犬でも全国各地から伊勢まで行き帰って来られたこと、それは道中でも伊勢でも、多くの人々が分相応に、それぞれ握飯・草鞋(わらじ)・物(船・馬)などを無料で提供する施行(せぎょう=布施の善行)に努めたから可能になったこと、などを紹介すると共に、そのような大神宮(天照大神)への庶民的な信仰と、みんなで思いやり助けあって目的をとげようとする誠意(お持て成しの心)を、今こそ見直し取り戻す必要があると述べたのである。

翌六日は、朝早く塾生約四百名と賢島からバスに乗って移動し、六時半ころ内宮の参道を大行列で進んだ。すると、また斎館の近くで尾長鶏が現れたのは、不思議でならない。その後「おはらい町」の岩戸屋で朝食をとり、再び宇治山田駅前の会館へ移動して、研修会が再開された。

ただ私は、中座して午前十一時ころ、前夜遷宮の儀が行われた外宮の新宮へ参拝するため、北御門から入ると、すでに奉幣の儀は終わっていた。けれども、ちょうど神楽殿西の九丈殿で大少宮司と全禰宜による饗膳の儀(最上の直会)が始まり、それを最後まで間近に拝見することができたのは、まことにありがたい。その午後、ようやく帰途につくことができた。

(十月十六日 以上)

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