その一
三たび参加・せんぐう館・結団式
今なお「お伊勢さん」と呼んで親しまれる伊勢の「神宮」では、八年余の諸準備を経て本年十月、第62回「式年遷宮」遷御の儀が斎行される(内宮正宮二日夜、外宮正宮五日夜)。それに先立って、七月下旬から九月初めまで「御白石持行事」が繰り返され、伊勢市内は異例の賑いで盛り上がっている。
最近、この行事に参加してきた。私は昭和四十八年(一九七三)の第60回式年遷宮当時、皇学館大学に勤め外宮近くに住んでいたから、この行事にも学生らと初めて奉仕することができた。ついで平成五年(一九九三)の第61回式年遷宮当時は、京都産業大学に勤めていたけれども、丁度二十年前に生まれた娘が皇学館大学に在学中だったから、その家族として奉仕することができた。さらに今回は、昨春から勤めているモラロジー研究所の人々と参加させて頂くことができたのである。
今私と家内は、娘家族の住む小田原にいるが、婿の両親と旅行などをしたことがない。そこで、この機会に両家族一緒で出かける計画を立て、八月三日(土)早朝、婿の運転で国府津の拙宅を出発、途中二カ所で休み、正午ころ伊勢へ着いた。
その午後、まず田中卓先生の御宅へ挨拶に伺い、ついで外宮へ参拝した。駐車場の都合で北御門口から入ったところ厩舎があり、そこに神馬の笑智(えみとも)号がいることに気付いた。この白馬は、今上陛下が皇居内で可愛がられ、一昨年三月十一日あの東日本大震災が発生した日に神宮へ献進されたサラブレッドである。
正宮に参拝後「せんぐう館」を見学した。この博物館は、一般の古文化財や芸術品を展示する所と異なり、神宮の遷宮に必要な神宝・装束・社殿などの素材と制作のプロセスや道具などが、ハイテクも使って判り易く展示されている。とりわけ正宮の妻側(棟持柱など)が、本物の用材で原寸大に復元してある。しかも、皇学館大学卒業生のF学芸員による懇切な説明を聴きながら、仰ぎ見て感嘆するほかなかった。
さらに宇治山田駅前の伊勢観光文化会館で結団式に臨んだ。今回の行事には参加希望者が極めて多く、モラロジー関係者だけでも、一八〇〇名の予定枠を越えて二四六〇名の限度一杯となり、二回に分けて結団式が行われた。
まず廣池幹堂理事長から奉仕団長として力強い挨拶があり、ついで地元代表者の山中隆雄先生による心のこもった記念講演が行われ、さらに岡本町の有志による美しい木遣歌の披露があった。その上で、「導きの神」を祀る猿田彦神社の禰宜による祓えの祭儀が同会館内で行われた。これは参加者が多過ぎて、二見の興玉神社へ参りお祓いを受ける「浜参宮」が難しいため、代りに営まれたのである。
それから観光バスに分乗して伊勢市内外の各宿舎へ向かった。私共は鳥羽グランドホテルに泊り、ゆっくりと両家族の懇親を深めることができた。
その二
「おかげ犬」・御白石の奉曳と奉献
翌四日(日)も好天に恵まれた。というより朝から猛暑であったが、海岸を散策したりして、十時にホテル出発、途中二見のテーマパーク「安土戦国村」で休憩をとった。ここにも伊勢神宮関係の展示館があり、立ち寄って意外な発見をすることができた。
それは、四十年以上前から噂として聴き、また最近『犬の伊勢参り』(仁科邦男氏著、平凡社新書)を読んで驚いた”おかげ犬”の絵が、何点も出ていたのである。おかげ犬とは、江戸中期からブームとなった「お蔭参り」の最中、各地より伊勢へ向かい帰ってきたという犬にほかならない。
仁科氏著などによれば、明和六年(一七六九)の式年遷宮から伊勢群参が暫く続き、同八年(一七七一)四月、首に名札を着けた雄犬が上方(京都)より来て外宮と内宮の宮前で「まことの平伏をなし」つつがなく上方へ帰って言った、という実例が当時の『明和続御神異記』に書かれている。
しかも、そのような犬は、文政十三年(一八三〇)から約60年ぶりに再発したお蔭参りにも数多く見られた。その一例は、当時『南総里見八犬伝』を書き始めた滝沢馬琴が、天保三年(一八三二)四月二十三日「出羽よりいせ参宮の白犬、今日千住(せんじゅ)を通行、宗伯(長男・医師)見かけ候よし」と記している。それらを描いた『伊勢参宮名所図会』の挿絵や安藤広重の風景版画が、「おかげ参り」コーナーに展示されていたのである。
その後、猿田彦神社近くの大駐車場に参集した。午後二時あらためて結団の上、御白石の樽を積んだ御木曳車の前に二千五百人近くが長い隊列を組み四本の綱を握った。そのために先頭の私共は、赤福本店の近くから宇治橋前までの「おかげ横町」通りを曳くことになった。僅かな距離ながら、酷暑の中、威勢の良い姉御の木遣歌と掛声に励まされ、みんなで「エンヤー!エンヤー!」と声を合わせて奉曳を楽しんだ。
続いて宇治橋を渡り手水で清めたが、不思議なことにその辺りからパラパラと小雨も降り涼しくなった。そこで各々に白い小石を頂き、それを白い布に包んで参進。そして現に天照大神の祀られている東側の正宮よりも手前の石段を昇り、ふだんは一般人の入れない玉垣から瑞垣の南御門を経て、真新しい正殿を仰ぎ見ながら西の妻側に廻り、玉のような御白石をそっと納めさせて頂いた。
その正殿も背後の東西宝殿も、かすかに香る総木曾檜造りで、美しいという言葉では表し尽くせない輝きに満ちている。それゆえ、まだ御神体も神宝・装束も遷されていないが、みんなおのずと手を合わせて拝んだ。
この御白石持については、神宮司庁編『瑞垣』二二五号(七月発行)にも芝本宮掌などが詳しく記すとおり、室町後期から史料にみえる神領民の奉賛行事である。白い石英岩の小石が宮川の河原から拾い集められ、それを両宮正殿の近くまで運び入れることは、寛永三年(一七八七)の正遷宮記に「信心に持ち候ふ儀、格別の事」と特筆されている。
これはまさに、お伊勢さん(天照大神・豊受大神)の「おかげ」に感謝する「信心」を持ち運ばせて頂く「格別な事」である。それに両家族そろって三度目の奉仕ができたことは、文字通り有り難い。しかも、二千五百名近い同志が全員元気で通しえたのは、本部と地元のモラロジースタッフなどによる至れり尽くせりの準備と奔走のおかげである。特に私共は、研究所のH氏が修養団の宿舎でシャワーを浴びて着替えられる手配までして下さり、感謝にたえない。そんな思いを語り合いながら、約六時間かけて真夜中に小田原へ帰り着いた。
(八月十日記)
補)神宮の御太刀に不可欠なトキ 所 功
神宮が「つねに古くて新しい」というのは、お伊勢さんへ一度でも詣でられた人、あるいは本書(所功著『伊勢神宮』講談社刊)を通読された方ならば、少しも形容矛盾でないことを納得されるであろう。また神宮の祭儀に額(ぬか)づき、あるいは遷宮行事などに奉仕するようなチャンスに恵まれるならば、「まさに神宮こそ、日本人の”心のふるさと”であり、そこには未来を拓く叡智が潜んでいる」ことも感取されるにちがいない。
とはいえ、神宮が「つねに古くて新しい」ためには、多大な努力を要する。現に今秋ゴールを迎える第61回の式年遷宮にしても、従来どおりの神殿や御装束・神宝などを作成することが前回以上に困難となり、関係方面で非常に苦心をされたと聞いている。
たとえば、内宮の神宝中、玉纏御太刀(たままきのおんたち)と並ぶ華麗な須賀利御太刀(すがりおんたち)は、日本産トキ(鴇・朱鷺)の美しい尾羽根を二枚、赤い絹糸で柄の上下に縋(すが)る(巻きつける)ユニークなデザインをもっている。しかも、それは平安前期の『延喜式』(大神宮式)にも、「須賀流(すがる)横刀一柄〔柄長六寸、鞘長三尺。その鞘、金銀泥を以て之を画き、柄、鴇の羽を以て之を纏ふ〕・・・・」とみえるので、少なくとも千年以上前から受け継がれてきたことになる。
ところが、その日本トキは乱獲や農薬のため近年激減してしまい、国際保護鳥に指定されたが、今や佐渡に二羽しかいない。私は昨年(平成四年)十月、順徳天皇七百五十年祭記念講演に佐渡へ招かれた際、初めて新穂(にいほ)の朱鷺保護センターを訪ね、美しいサーモン・ピンクの羽毛を見たが、関係者の涙ぐましい努力にもかかわらず、もはや絶滅を免(まぬが)れがたい状況にあるという。したがって、今回造進の須賀利御太刀には、かつて能登の篤志家が保存していたもので何とか間にあわせられたが、将来はそういうこともできなくなる恐れがある。
しかし、このような希有の素材であれ、また手造りの高度な技術であれ、結局それを神々のために護り伝えようとする人々が、たゆみない努力を積み重ねるならば、今後も何らかの方法で永続できるにちがいない。その可能性を見事に実証しているのが、伊勢の神宮である。とすれば、このような活々(いきいき)した神宮文化の真髄を理解し、それを子々孫々に引き継ぐことこそ、現代に生きる私どもの務めであろう。
(平成五年正月七日朝) ~所功著『伊勢神宮』講談社刊より
〈参考)随筆「トキに魅せられて」水野淳子(Vol.48 No.529 August-September 2007より)