きのう八月十五日は、一般に「終戦の日」と称される。しかし、厳密にいえば、ポツダム宣言の受諾通告は前日の十四日であり、対連合国降伏の文書調印は九月二日である。
さらに「戦争状態」が終結したのは連合国軍の対日占領統治が終結した昭和二十七年四月二十七日(二十八日講和独立)にほかならない。
とは申せ、八月十五日には独特の意義がある、とあらためて実感した。昨日は早朝に小田原を発ち、まず靖國神社に参拝した。すでに十時前から、炎天下にも拘わらず、大鳥居より神門へと数珠つながり、神門から拝殿へと十列縦隊、その人波を抜けて参集殿前で拝礼し、能舞台前で白鳩を放つ式を見学してから、徳川康久宮司にご挨拶を申し上げた。
ついで、神門脇の社務所へ伺い、九月一日より四日まで皇居の勤労奉仕に来る京都産業大学有志学生(十七名)が、前日(八月末)まず当社へ昇殿参拝させて頂くため、玉串料を奉納し遊就館の案内もお願いした。
それから境内参道の特設会場で十時半から開催の第二十八回「戦没者追悼中央国民集会」に参列。例年通り冒頭に「終戦詔書」(八月十四日付)の玉音放送が、鮮明な音盤で流されるのを拝聴しながら、その堂々たる深い内容に更めて感銘を覚えた。それに続く主催者代表(日本会議会長の三好達氏と英霊に応える会副会長の小田村四郎氏)の力強い挨拶まで聞いて中座した。
続いて、近くの国立武道館で開催の第五十二回「全国戦没者追悼式」に参列した。この式典は、日本遺族会の度重なる要望により昭和三十八年から政府の主催で始まった。これには殆ど反対がなく、しかも、当初は中央の柱に「全国戦没者之標」と書かれていたのが、まもなく「全国戦没者之霊」と改められている。それは神道的に申せば、全国戦没者(戦死者も戦災等の犠牲者も含む約三百十万柱)の御霊を招く「依代」(よりしろ)にほかならない。
そこへ、今年も天皇(八十歳)皇后(七十九歳)両陛下がお出ましくださり、正午その霊前で全国民と共に黙祷され、真心のこもる御言葉を賜った。戦没者にとっても遺族関係者にとっても、これほどありがたいことはない。
それに先立つ安倍首相の式辞では、「いまだふるさとへの帰還を果たされていないご遺骨のことも、決して忘れません」と述べられた。確かに沖縄・硫黄島および海外には、まだ百万以上の遺骨が放置されているから、その収集は可能な限り早急にして頂きたい。しかも、それ以上に重要なことは、現地へ赴いて慰霊と感謝の誠を捧げることであろう。
この点、すでに両陛下は、昭和五十年から沖縄に十回、平成六年に硫黄島、平成十七年にサイパン島へ出向かれており、来年にはパラオ(ベラルーシ)への慰霊も希望されているという。
昭和二十年八月十五日の御作文に「新日本の建設」は「私の双肩にかかってゐる」と決意されて以来、陛下は現世の日本国民だけでなく、幽界の全戦没者に「心を寄せ続けて」おられる。私たちはこのような陛下を最高の手本と仰ぎ、各自にできることを考えながら、着実に実践していきたい。
その帰途、九段下の「昭和館」へ立ち寄った。羽毛田信吾館長(前宮内庁長官)に御挨拶をするためであるが、久しぶりに七階と六階の常設展を一巡し、三階の企画展「空襲とくらし」も観ることができた。その一角に昭和二十年八月十五日の新聞が貼り出されており、見出しからも当時の受け止め方がわかる。「読売報知」には「万世の為に太平開かむ」「忍苦以て国体護持」とあり、朝日新聞すら「国体護持に邁進」「親政厳たり随順し奉る」ことを強調している。それが間もなく被占領下で一変し、講和独立後も元に戻らないのは何故だろうか。
なお、午後三時半、かねて見たいと思っていた本がないか探すため、国立国会図書館へ赴いた。そして馴れないネット検索をしたところ、何と全文デジタル化されている(館内のみ閲覧)。岩下羆(ひぐま)撰「冕服図帖」全三冊(明治四十年、京都 艸堂)である。若い親切なスタッフに教えてもらい、全冊通覧して九月十六日の研究会で発表する「後桜町女帝の宝冠と御即位図」に必要な部分をカラーとモノクロでコピーしたが、僅か二千円ほど(古書価の百分の一以下)。まったく便利な世の中になったものである。
(八月十六日記)