(33)吉田松陰に学ぶ「神を拝む心」



三年前から住んでいる小田原市の国府津(こうづ)に「菅原神社」がある。ここは童歌「通りゃんせ」の発祥地といわれ、初詣・天神祭(毎月二十五日)・春秋例祭・七五三にも、いわゆる受験シーズンにも参拝者が多い。

あの童歌に「行きはよいよい、帰りは怖い」というのは何を意味するのだろうか。木俣(きまた)修氏の『わらべ歌歳時記』によれば、「七つのお祝いにお礼を納めに参ります」といえば、往来手形がなくても関所を通してもらえたが、帰りは容易に通行を許されなかった庶民の哀歌だという。

ただ一般に「こわい」とは、方言で「難儀して骨が折れ辛い」ことだから、宮参りも行きは樂だが、帰りは疲れて苦しい、という意味だろうと解されている。しかし私は、どんなお参りであれ、神々に御加護をお願いに行くことは結構だが、純真な気持で拝まないと、帰りに(後で)怖い目にあうことを忘れてはならない、という道歌(教訓)ではないかと考えている。

私は今春、吉田松陰が妹達(児玉千代・小田村寿・久坂文)に宛てた手紙や、読むことを勧めた女訓書の抄録に、詳しい解説と補注などを加えた新書を出すことになった(勉誠出版より)。たとえば、安政元年(一八五四)十二月三日の書簡には、「子供を育つる」心得三条のひとつとして「神明を崇め尊ぶべし」に次のごとく記されている。

神前に詣で柏手を打ち、立身出世を祈りたり長命富貴を祈りたりするは、大間違ひなり。神と申すものは、正直なる事を好み、また清浄なる事を好み給ふ。それ故、神を拝むには、まづ己が心を正直にし、また己が体を清浄にして、外に何の心もなく、ただ謹しみ拝むべし。これを誠の神信心と申すなり。その信心が積りゆけば、二六時中、己が心が正直に、体が清浄になる。これを徳と申す。・・・信あれば徳ありといふ。よく考へてみるべし。

確かに「神を拝む」のは、現世的な立身出世や長命富貴を祈るためではない。

心を正直にし体を清浄にして「何の心もなく(無心に)ただ拝む・・・信心」を毎日ひたすら続けていれば、おのずから「心が正直にて体が清浄になる」という「徳」(功徳)を頂くことにこそ意義がある。それを判り易く示すため、松陰は末尾で「心だに誠の道に叶ひなば祈らずとても神や守らん」という「菅丞相(道真)の御歌」(神詠)と「神は正直の頭(こうべ)に舎(やど)る」という「俗語」を挙げている。

この教えに学んできた私は、神前に参ると、まず感謝、ついで決意、さらに祈願の気持をこめて、まず「これまでありがとうございました」、ついで「こういうことをしたいと思います」、さらに「これからもよろしくお見守りください」と唱えることにしている。

なお、このHp「かんせいPLAZA」を始めて満二年、いよいよ三年目に入る。あらためて、同志の従弟(橋本秀雄)に感謝し、心新たに発信し続けることを誓い、ネット上の読者各位に御高教をお願いしたい。

(三月十日記)

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