NHK日曜討論「どう考えるこれからの皇室」発言補充説明
(京都産業大学名誉教授)所 功
○ NHK総合テレビの日曜討論は、千代田放送会館において朝九時から十時まで行われる。今回(5月31日)のゲストは、田中里沙さん(事業構想大学院大学学長)と百地章さん(日本大学名誉教授、昭和二十一年生まれ)と私(同十六年生まれ)の三人であった。
ただ、シナリオなしの生放送である。発言は原則として一分以下に限られ、質問も反論も司会(伊藤雅之解説委員・上原光紀アナウンサー)の諒解を要する。従って、従来から私と見解を異にする百地さん(以下M氏)の発言に一々修訂を求めることは難しかった。そこで、ここに若干の問題点を補充説明させて頂こう(以下、Q㋑~㋥は後掲付載メモの符号、丸括弧内は私注)。
1 Q㋑皇室の現状について、三人とも危うい状況にあるという認識を示した。ただ、M氏は、現皇室に若い男子が一人しかおられなくても、「今日の医学・医療の進歩によって十分対応できる」と述べられた。
それに対して私は、秋篠宮さまから悠仁さまの誕生まで四十年間も男子がなかった(他は内親王三方、女王五方)のみならず、また三笠宮家では、三方も立派な親王がおられたけれども、父君(崇仁親王、平成二十八年薨)に先立って、いずれも(長男寬仁親王は四年前、次男桂宮宜仁親王は二年前、三男高円宮憲仁親王は十四年前)他界されている。そのため、長系長子の彬子さま(未婚、44歳)が昨年から当主となられ、今や同家は事実上「女性宮家」に変化している。このようなことは滅多にないであろうが、絶対ないとは言い難いことを忘れてはならない、と注意を喚起した。
2 Q㋺政府の第一案に関して、M氏は「男系・女系」の説明を求められ、「女系」について「母方を通じてしか皇室(歴代天皇)に続かないという方」とした上で、具体的に「愛子様が……民間の、たとえばA家の方と結婚された」場合、「そのお子様から見ると、父方は……民間のA家になってしまい……母方が愛子様ですから、女系として皇室につながる」とし、「皇室の伝統は、初代神武天皇からすべて男系でき」たことが「不文憲法で認められ、そして明治憲法でも定められた」のだから、「今の憲法に……世襲というのは男系を指す」という。
それに対して私は、「すべて男系で来たとか男系でなきゃならんというのは、日本にとって……伝統ではない」との見解を示した上で、なぜなら「日本の皇室には、今で言えば名字にあたる姓(氏姓)がない……オンリーワン(唯一最高)の存在ですから、そのもの(天皇から有力豪族に下賜される姓)が必要ない……という意味では、男系とか女系とか(の区別)は元来ない」。けれども、「男子が多く即位してこられた事実……をもって男系というのは、それも一つの考え方」であろうと説明した。
具体的にみると、たとえば「舒明天皇と皇極(=斉明)女帝……のもとに天智天皇とか天武天皇がおられ……こういう方は女系といっていい」こと、また草壁皇子(皇太子)と元明女帝の間に生まれた文武天皇と元正女帝も「女帝のもとに続いてきているのだから、女系といってもいい」ことを例示して、M氏のごとく「すべてが男系であった……それが伝統だというようなことは到底言えない」と再言した。
するとM氏は、「古代において結婚は皇族間の結婚しかなかった……ですから男子も女子も関係ない……男系・女系という意識さえもあまりなかったかもしれない」という驚くべき発言をされた。もしこれが本音ならば、「古代」(神武天皇以来か)には「男系・女系という意識さえもあまりなかった」「男子も女子も関係ない」ことを認める一方、「男系を維持する」ために「武烈天皇(皇子なし)のとき……二百年も遡った方、応神天皇まで遡って……継体天皇が上がってくる」ことを「大変な努力だった」と強調することは、まさしく自己矛盾というほかないであろう。
3 そのようなご夫妻・親子の関係を表示している「天皇系図」は、宮内庁のホームページが正確である。それをM氏は、政府の有識者会議などで配った「天皇系図」で結婚(夫妻)により繫がる線を省いてしまい、全て男系だったと印象づけているのは、不可解といわざるをえない。
それにも拘わらずM氏は、神武天皇に始まる歴代天皇が男系で一貫している、と強調する。ところが、明治・大正期に作成されたものを戦後も昭和二十二年(一九四七)の「皇統譜令」(政令)により宮内庁で保管されている公的な「皇統譜」には、神武天皇を「皇統第一 世系第六」とし、それ以前に「世系第一」を天照皇大神としている。それは「神代」の系譜であるが、女神とみなされる天照皇大神を皇祖神とし、その後裔が男帝の皇統初代の神武天皇と明示されていることを、軽視したり無視してはならない。これを以て女系という必要はないが、大和朝廷成立以前(縄文時代)からあった母性(子を産む母)を尊重する信仰の投影とみてよいであろう。
このような前史があるからであろうが、父性・父姓を絶対視する儒教の導入後も、記紀の巻頭に「神代」が特筆されている。また、飛鳥時代の大宝元年(七〇一)に制定された律令(前近代の最高法規)の「継嗣令」(養老令も同文)には、男性優位の表現をとっているが、「皇(天皇)の兄弟(姉妹)も皇子(皇女)も、皆(王・女王でも)親王(内親王)と為す」と決めるのみならず、「女帝の子(女帝の男子・女子)も亦同じ」との原注(本文と同様の法的効力をもつ)と定めている。これは中国の律令にない日本独自の規定であり、ここに「女帝」の存在を明示しているのは、太古以来の女神を皇祖神と仰ぐような伝統が根強く残っていたからとみられる。
その「女帝」は飛鳥・奈良時代に六方八代も実在している。それは必ずしもM氏のいうような「摂位」一時しのぎの中継ぎでなかった。とりわけ推古天皇は、東アジア世界において最初に出現した女帝である。当時(六世紀末)他に成年男性皇族が複数おられた中で、有力者たちから強く推されて即位され、聖徳太子を「摂政」として活用しながら大きな役割を果たされたことは、放送中にも略述したとおりである。
4 Q㋺政府の第一案に関して、「皇族女子」と結婚する一般男性に皇族の身分を認めないならばよいというM氏は、なぜか幕末に皇女和宮が内親王宣下を受けて将軍徳川家茂に降嫁された例をあげ、身分の異なる夫婦もありえたとか、皇族女子が皇族でなくなっても、新しく「皇女」というような名称を与えて皇室の公務を手伝われたらよいのではないかとか、かなり無理な見解を述べられた。
それに対して私は、呆れ返って反論もしなかったが、ここで敢えて説明すれば、和宮さまは仁孝天皇と新典侍(側室)橋本経子の間に生まれた末子(異母兄の孝明天皇より十六歳下)であるが、江戸幕府の公武合体策により将軍徳川家茂との婚約を強引に承諾させられ、文久元年(一八六一)内親王の宣下を受け、翌年江戸に下向されたが、前近代に摂関家へ降嫁された他の内親王と同じく、皇族の身分を保持し「皇女和宮」と称し続けられた。しかしながら、あくまで将軍家に迎えられた正室であるから、嫁ぎ先のために尽くされたのであって、朝廷の一員としての任務を担われたのではない(四年後に夫の家茂が薨ずると、夫に殉じて出家された)。
また、皇族女子が一般男性との結婚により皇族の身分を失われてからも、それに準じて「皇女」と称する、というM氏らの案は、甚だ乱暴な意見である。「皇女」(および皇子)とは、古代から明治を経て現行の皇室典範でも、天皇・皇太子の御子のみを指す呼称であって、皇孫は含まれない(具体的にいえば、愛子内親王は皇女であるが、眞子・佳子両内親王は皇女と称しえない)。このような敬称を濫用してよいはずがない。これは皇族の身分にある御方と離籍された元皇族とを峻別して秩序を守るためである。
5 Q㋩政府の第二案に関して、司会者から「旧皇族・十一宮家」の説明を求められたので、この旧十一宮家は、いわゆる男系男子で遡ると、全て約六百余年前(室町時代初期)に皇位から外れた栄仁親王(北朝三代崇光天皇の第一皇子)の救済措置として伏見殿などの伝領を認められ、その子孫が当代天皇の猶子(名目養子)となって親王と認められることにより伏見宮家を世襲してきたこと。やがて幕末の二十三代邦家親王が正妃・側室との間に三十数名の子女を儲け、そのうち七名を新宮家の一代当主とし、それが明治二十二年(一八八九)の旧皇室典範により「永世皇族」とされて戦後に至ったが、昭和二十二年(一九四七)GHQによる皇室財産への法外な課税に直面して、直宮家(秩父・高松・三笠の三宮家)以外、皇室離脱を余儀なくされて「旧皇族」と称されることになった経緯を簡単に説明した。
するとM氏から、伏見宮系は六百年前に皇室より分かれているというが、皇室との関係は続いており、特に明治天皇の四皇女を妃に迎えた竹田・北白川・朝香・東久邇の四家などは血縁も近く、今なお密接な交流があると反論された。そこで、近代の四宮家などは「母方を通じて近いということだから、いわゆる男系だけでなく母方の重要性も考えているのですね」と指摘した。
ちなみに、「男系・女系」の定義は広狭二義あるが、『法律用語辞典』(有斐閣)によれば、「女系」について「広く中間に一人でも女子の入った、男系でない血族関係を指して用いられることもある」という(平成十七年の有識者会議も同見解)。また古代の皇室は、父方と母方の血統に基づく「双系」だったとみる研究も有力といえよう(たとえば、吉田孝氏『歴史のなかの天皇』〈岩波新書、平成十八年〉など)。
なお、旧皇族の方々が子孫も含めて皇室と交流を続けてこられたのは事実であろうが、「菊栄親睦会」メンバーの大会は、御代替り記念の平成四年(一九九二)と、平成二十六年(二〇一四)「天皇陛下傘寿奉祝記念大会」以来開催されていないようである(毎年新年参賀は各家当主夫妻のみ)。
6 旧宮家の子孫が「養子」として皇族になれる案を提唱し牽引してきたM氏は、そういう例が江戸時代まで何例もあったからよいと強調された。それに対して私は、過去の養子をみると、皇族と皇族の間で行われた例は有るが、旧皇族の子孫でも一般国民として生まれ育った人が養子として皇室に入った例は全く無い、と指摘した。
するとM氏は、何を考えられたのか、平安時代の宇多天皇(八六七~九三一)が源姓に降下してから皇位に即かれ、また後継の醍醐天皇は源定省の御子として生まれながら皇位に即かれたのだから、旧宮家の子孫が養子として皇族になっても問題ない、という意味の反論をされた。
そこで私は、いま課題となっているのは、皇籍を離れて八十年も経った旧皇族子孫の養子皇族化案であって、宇多・醍醐両天皇の例は当時の特殊な宮廷事情により生じた皇位継承の問題だから、直接関係がなく、その当時の実情を無視したり混同してはならない、という意味の指摘をした。しかしM氏は、こういう例があったのだから皆無ではないと言い張られた。
念のため、宇多天皇の場合、父君光孝天皇が、幼少の陽成天皇を退位させた太政大臣藤原基経に強く要請されて即位した直後、基経に配慮して御自身の御子に皇位を伝える意志のないことを示すため、ほとんどの皇子・皇女を源朝臣に降下せしめられたが、三年半後、やはり第七皇子定省への譲位を基経に懇請され、親王に復した上で即位を実現されたのである。その途中で元慶九年(八八五)源維城として誕生された方が、父君の即位により仁和三年(八八七)皇族となられ、親王宣下を受けて御名も敦仁と改め、十年後の寛平九年(八九七)父帝から譲位されて即位し醍醐天皇となられたのである。まさに特殊な事例であり、以後このようなケースはない。
なお、しいていえば、順徳天皇の第五皇子忠成王の御子の彦仁王は、源姓に降下し(その末裔が岩倉氏など)、その御子忠房王は、文保三年(一三一九)後宇多上皇の猶子となって親王宣下を受けた(その御子は源彦良となり参議を務めた)という例がある。しかし、これらを詳しく調査した上で、明治の「皇室典範」では、第四十二条に「皇族ハ養子ヲ為スコトヲ得ズ」と定め、その理由として「養子ヲ為スコトヲ禁ズルハ、宗系紊乱ノ門ヲ塞グナリ」と解説している(伊藤博文著・国家学会刊『帝国憲法・皇室典範義解』)。それを受け継いでいる現行典範を改めて、旧宮家子孫の養子皇族化を目指してよいのかどうか、M氏らに自問自答してほしいと思う。
7 にも拘わらず、M氏は旧宮家子孫の中に「男系の男子」として養子となりうる若い人が十数名おり、制度ができたら受諾を覚悟している、と日本会議国会議員懇談会などで断言し、放送中もそれに近いことを発言された。そこで私は、そういう若い人がいるかもしれないが、最近ある雑誌(『週刊文春』五月二十九日発売、六月四日号)にも引かれている東久邇盛彦氏(昭和四十二年生まれ、元稔彦王の孫)の二十一年前(平成十七年)『文藝春秋』のインタビューで「旧宮家から養子をとるといっても……そこまでして何を残すのかということをよく考えるべきだ」と懐疑的である。
また久邇邦昭氏(昭和四年生まれ、上皇陛下の従弟)は、著書『少年皇族の見た戦争』(PHP研究所、平成二十七年刊)の中で「今さら皇室に戻れといわれても(一般国民として生きる教育や就職をしてきた子や孫に)無理であり迷惑だ」という意味の否定を明言された。さらにその弟の久邇明宏氏(昭和十五年生まれ)に至っては、上掲雑誌のインタビューで、同様に否定するのみならず、「私は女性天皇でいいと思っています。……女系を認めてもいいでしょう」とまで表明されている。
8 ここまで来て、M氏は突然「所先生は令和二年に女系天皇・女性天皇・女性宮家を否定しておられました。現在はお立場が変わってますね」と言い出された。私は呆気にとられて「そんなことはありません」と言ったが、これは放置しえない曲解だということを、ここで明らかにしておきたい。
M氏ほどの憲法学者が何故こんなことを大声で言うのか、帰宅後に友人の助けを借りて調べたところ、どうも令和元年(二〇一九)十一月の櫻井よしこさん「言論テレビ」に招かれて、竹田恒泰氏(曾祖母が明治天皇の皇女昌子内親王)と対談した時か、あるいは同三年の「皇室典範特例法案に対する附帯決議に関する有識者会議」第三回会合ヒアリングに招かれて陳述した管見の、一部を切り抜き別の意義を付ける意図的な誤解と思われる(これを菅原道真は「断章取義」と批判している)。
すなわち、後者の公式記録(内閣官房ホームページに公開)を見直すと、冒頭の要旨で「まず第一に、安定的な皇位継承に関しては、男系の男子を優先して、男系の女子まで容認しておく必要がある。ついで第二に、皇族女子の在り方については、男子不在の内廷と宮家において(新宮家の当主となり)相続も可能とし、公務を分担し続けていただく必要があると考えている」と述べた。
その上で、各設問の説明中、いわゆる女系について「皇位継承の資格は、天照大神を皇祖と仰ぎ、神武天皇を皇宗と伝える子孫(皇統に属する方々)のうち、皇族の身分にあることが本質的な要件であり、生物的な男女別は派生的な要素とみられる。ところが、歴史的には、古代中国の儒教などが絶対視する父系、つまり男系尊重の思
想的な影響により、その継承は皇宗(神武天皇)以来いわゆる男系で一貫しており(そのように見える)、大部分が男子である。したがって、このような千数百年以上にわたる慣習(原理ではない)は、当分重視する必要があり、皇位継承の資格を今の段階で女系にまで拡大すれば、不安や混乱を招くおそれがある」と「当分」の現実的な対応方法を述べていることは、誰にも判るであろう。これをM氏も読んでおられるにちがいないが、何故「令和二年(ママ)に女系天皇・女性天皇・女性宮家を否定しておられました」などという無茶苦茶な言い掛かりをつけるのか、全く不思議でならない。
そこで、やむなく念のため持参していたM氏の著書『憲法の常識常識の憲法』(文春新書、平成十七年刊)を開き、「万一の場合には、皇統を守るために、女帝さらには女系の選択ということもあり得る」(九四頁)と明記されながら、「その前に是非考えてみなければならないのが宮家の現状である」として、それには「養子制度の復活が望ましく……ただ……養子の条件を(旧宮家のような)男系男子の皇胤に限る必要がある」(九六頁)と提言されている部分を読みあげ、ともかくM氏「女帝さらには女系」天皇も「皇統」に含まれると明らかに認めていたことを指摘した。
するとM氏が「それは違います」。旧宮家の男系男子が養子として皇族になれば、女帝も女系も必要ない」という意味の弁明を口走られたのを見て、さもありなんと思った。
9 最後にQ㋥今後の皇室の在り方に関して、私は現代の日本人大多数が直接間接に見聞きしてきた戦後の皇室(天皇・皇室)を振り返って、昭和から平成を経て令和へ至り、社会の変化を汲み取られて段々と変化して来られたことに注目し、いわば〝昭和流〟をお手本にされながら〝平成流〟を形作られ、その両流を承けて新たな〝令和流〟が展開されているように思われると述べた。
その「〝令和流〟といわれるものの一つの特徴は、(内廷の天皇・皇后)両陛下とご長女の(敬宮)愛子さまがご一緒に、ご夫妻・親子ご一緒になって公務などをなさるケースが(前二代より)非常に非常に増えており……そういう形は家族の一つのモデルとして、家族が協力して歩んでいく」ことであり、特に「今の陛下は六十代半ばですが、(父君と同じく八十六歳ころまで)あと二十年位はご在位いただけるとして、その間に親子そろって……ちゃんとご公務を果たしてくださるというような形が見えれば……それが多く国民にも理解され共感されるだろう」という展望を述べた。そのためには、敬宮さまが皇族女子宮家の当主として皇室に留まられ、御両親(両陛下)を身近に支えながら皇族身分となる夫や子たちと共に公務を担い続けられることが当然必要なことは、常識的にわかることだと思われる。
するとM氏は、平成流とか令和流というのは芭蕉の唱えた「不易流行」の流行にあたることであり、「天皇の一番大事なお仕事はお祭、国家の安泰と国民の幸福を祈るということ……これは絶対変わらない」と「不易」の説明をされた。確かに芭蕉の「不易流行」は、不変の本質を守りながら可変の要素を取り入れていくことであろうが、両者は相互に作用することによって伝統を新境地に活かし続けられるものと解される。
この本質的に重要な宮中祭祀は、天皇が主催される。その天皇は男系の男子でなければならない、と信じ込んでいる政治家や言論人が少なくないようである。もちろんM氏はそうでないであろうが、同氏も要職にある日本会議の機関紙『日本の息吹』令和六年二月号に「神道学者」を自負する大学教授が、「皇室の祀り主は男系男子でなければならない」というタイトルの論考を掲載されており、それを訂正した記事が見あたらないので、同会ではこの見解を是認していると見られるからである。
そこで放送中に、宮中三殿で中心の賢所(天照大神を祀る所)の「一番奥(内々陣)では、内掌典という女性がやっておられ」ること、また過去の女帝も祭祀をちゃんとやってこられた」という「事実をふまえた上で今後も考えるべきだ」と指摘した(伊勢神宮の祭主は今も元皇女黒田清子さまが務められ、全国の神社でも女性の宮司が漸増している)。
現代の皇室において一番重要だと思われること(不易といってもよい)は、昭和二十一年(一九四六)元旦に公表された「新日本建設に関する詔書」の中に、「朕(天皇)と爾等(なんじら)国民との間の紐帯(絆)は、終始相互の信頼と敬愛に依りて結ばれ」と仰せられていることであり、それを令和の新時代に活かすため、両陛下がご家族お揃いで信じあい敬いあう日本古来の理想的な家族モデルを体現されていることに感謝したいと述べた。
以上、放送の枠内で僅かしか言及できなかったことの真意や事情の説明を若干補足してきた。保守的な憲法学者のM氏に全く他意はないが、かねてより日本会議の政策委員として政府にも国会議員などにも積極的な働きかけをされてきた影響力を考えれば、その発言に責任をもってほしいと念じながら、あえて誤解とみられる部分に訂正を求めたのである。
なお、この二人を笑顔でながめながら、中立的な発言で一貫された田中学長と、的確に進行された両司会者に、敬意と感謝の念を表しておきたい。(令和八年六月一~三日記)
〈付載〉NHK日曜討論「これからの皇室」(令和八年五月三十一日)準備メモ
可能な限り正確な史実と事実を誠実に説明するよう努めるが、相手から不正確な発言があれば、冷静に訂正を求める。
Q㋑皇室の現状をどのように見ているか。
A㋑皇室も少子高齢化が進み、「皇室典範」の定める「皇位は皇統に属する男系男子」が次世代には四十年ぶりに生まれた悠仁親王お一人しか居られない状況にある。
しかも、昭和戦後から平成年代を経て令和の今日まで、国内・海外からの公的要請に応えられる天皇・皇族の公務が段々と増大している。
Q㋺政府の提示した「皇族数の確保」策の第一案をどう見ているか。
A㋺皇位継承者と公務分担者が減少し過ぎている現在、「皇族数の確保」に資するため、「皇族女子」が結婚後も皇室に留まりうる方策は、当然必要である。
ただ、その夫も子も一般国民とする政府案では、皇族女子を当主とする新宮家は一代で終るから、夫も子も皇族にして皇族数の増大を可能にする必要がある。
政府案のままで通すならば、皇族の女性当主と一般国民の夫・子が同居することになり、家族が一体となって生活し活動することが困難になる恐れがある。
皇室には姓(名字)が無いけれども、俗姓をもつ夫・子との家族別姓を制度的に強制することになり、夫と子のプライドもフライバシーも損われる恐れがある。
それゆえ、夫も子も皇族にして公的な生活も活動も可能にすべきであるが、その子たちに皇位継承の資格を認めるか否かは今後の検討に委ねて構わない。
Q㋩政府の提示した方策の第二案をどう見ているか。
A㋩右の第一案では皇族数を増やせないことを見越して「男系の男子」を養子として皇族にするというのは、制度化が難しく慎重に検討する必要がある。
なぜなら、「男系の男子」に固執すること自体、明治時代の男尊女卑的な風習の上に軍事優先の必要から創作された観念であり、現今の日本では通用し難い。
そもそも日本の皇室には「姓」(名字)がなく、父姓(父系)を絶対視する中国のような男系限定の歴史は、明治以前にないが、男子を優先する傾向は続いてきた。
ただ、男子が多く継いできた系譜を振り返れば「男系」にみえるが、その途中に両親が男帝と女帝の間の皇女=「双系」もあれば、母帝と皇太子の間の皇女=「母系」もあるから、「男系」のみが絶対的な伝統とは言い難い。
しかも、男子が多く皇位を継承しえたのは、正室の嫡子だけでなく側室の庶子も容認していたからであって、それを禁じた現行法下では極めて難しい。
〈添付〉
一 宮内庁HPと百地章氏作成の天皇系図」対比
二 BS‐TBS 報道1930・資料「皇統理解の基礎知識」
※ 後者は五月二十三日放映番組に求められてオンラインにより参加する際、事前に用意した資料の抄出メモである。

