(44)吉田松陰と熊本志士の宮部鼎蔵たち
「地理」を重んじた吉田松陰 吉田松陰という人は、本来的な意味での〝 実学者 〟だったと思われる。決して机上の観念的空想論者ではなく、実地に赴き現物を確かめ、その実感に基づく現実的な計画を立て、その実現に向けて具体的な努力[…]
主筆の所が時々の話題をとりあげ、おもに歴史的・文化的な観点から、日本および日本人の在り方について論評します。
「地理」を重んじた吉田松陰 吉田松陰という人は、本来的な意味での〝 実学者 〟だったと思われる。決して机上の観念的空想論者ではなく、実地に赴き現物を確かめ、その実感に基づく現実的な計画を立て、その実現に向けて具体的な努力[…]
今年は、大正四年(一九一五)十一月に京都で大礼(即位礼・大嘗祭・大饗儀)が行われてから満百年になる。 この大礼は、明治二十二年(一八八九)制定の「皇室典範」および同四十二年(一九〇九)公布の「登極令」に基づき、初めて実施[…]
御前会議における停戦の御聖断 最近(八月一日)、宮内庁から七十年前の貴重な資料を公開予定と伝えられる。その一つは昭和二十年八月の十日と十四日、戦中最後の御前会議が行われた皇居吹上御苑「御文庫」(防空壕)付属室の映像資料([…]
「地理」を重んじた吉田松陰 吉田松陰という人は、本来的な意味での〝 実学者 〟だったと思われる。決して机上の観念的空想論者ではなく、実地に赴き現物を確かめ、その実感に基づく現実的な計画を立て、その実現に向けて具体的な努力[…]
『新潮45』の平山周吉論文の要点 前回「日本学広場」(38)で「東宮御教育常時参与の小泉信三博士に学ぶ」を書いたのは、『新潮45』七月号の掲載論文に触発されたからにほかならない。 それは、平山周吉(ペンネームか)という慶[…]
小泉信三博士が満七十八歳で他界されてから半世紀近くになる。私は生前お目にかかる機会をえなかったが、忘れ難い思い出がある。 昭和三十年の靖國神社参拝 それは昭和三十年(一九五五)夏休みに遡る。当時中学二年生(十三歳)の私ど[…]
五月十五日、新緑の映える京都では、雅びな葵祭が晴れやかに行われた。そのヒロイン斎王代の輿丁(よちょう)と、神供の御幣櫃を荷う白丁などは、十数年前から京都産業大学の有志学生が奉仕している。 在職中それを手伝ってきたが、三年[…]
いわゆる戦後七十年の節目にあたり、私ども日本人は何を為すべきか何を為しうるか、各界各層で多様な議論や報道が盛んになりつつある。しかも、それを早くから熟慮され自ら実践してこられたのが、天皇(81)皇后(80)両陛下にほかな[…]
新年度を迎えて、70歳代に入った年寄りでも心が浮き立つ。 4月1日、定年後奉職して満3年になった柏市のモラロジー研究所へ早朝出勤。東海道線・常磐線沿いの桜も、廣池学園キャンパスの桜も、帰途ちょっと立ち寄った上野公園の桜も[…]
本日到着の「神社新報」(平成二十七年三月十六日号)によれば、「日本会議国会議員懇談会」が三月四日「女性皇族の方々にご結婚後も『皇室活動』を継続して頂くための方策に関する要望書」を首相官邸に提出したという。 その要点は、ま[…]